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2014年7月13日 聖霊降臨節第6主日
「取って食べよ」
榎本 栄次 牧師
ヨハネの黙示録 10章
信仰は実生活に生きて働く力でなくてはなりません。どうでもいいところで気休めに置いておくものではありません。また神は私たちと無関係にスーパーゴッドとして絶対者であられるのではなく、私の中に関係を求められる人格神です。私のあり方を問うてくるお方です。
黙示録9章において、御使が第五と第六のラッパを吹き鳴らしたときに起こる災害について学びました。地上の3分の1の人間が殺される悪魔の働きですが、それは人を苦しめるためではなく、悔い改めに導くための天使の役割でした。にもかかわらず人々は悔い改めることをせず、その生き方を変えようとはしませんでした。
そこでいよいよ第七のラッパが吹かれてどんな恐ろしいことが起きるのかと気になるところです。ところがヨハネはその前に第六と第七の間に二つの話を入れています。巻物に関する話(10章)と二人の証人の話(11章)です。10章では、「巻物を受け取って、それを食べてしまえ」と言いました。巻物とは御言葉のことです。それを取って食べるということは、聖書を読む者に大きな示唆を与えてくれます。取って見る、触る、調べることと食べることは全く違います。食べるということは、自分の中に入って血となり肉となることです。見るだけではそれがどんなにすばらしくても自分のものにはなりません。信仰についても同じことが言えます。聖書を詳しく調べ、良い話をどれだけ聞いたとしても、それで自分の生活が変わらないならば何の意味もありません。食堂の前で看板を眺め、臭いをかぎながら歩いているのと同じです。御言葉を聞いて、具体的に自分の生活を変えることが「食べる」ことです。
自分の事情を保留して、まず神の言葉の具体化を進めることです。この食べ物は口当たりは良いけれどもお腹の中に入ると苦いと言います。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」とか「良薬口に苦し」というのは一時的に苦しいことがあっても後になると楽しい結果になると言う教訓ですが、「口には甘く、腹には苦い」というのはどうでしょうか。なんだか騙されたような気がしますが、それがキリスト教信仰の現実でしょう。神さまが私達になさろうとすること、私達にさせようとしている「秘められた計画の成就」は甘く優しいことばかりではありません。逃げ出したくなるようなところへ遣わされるのです。初めからそれが分かっていたらとてもじゃないけれどできないようなことが、神に「押し出されて」耐える力が与えられるのです。初めに安請け合いをして後になって後悔することがよくあります。「引き受けるのじゃなかった」などと思いながら仕方なくさせられて、後に大きな恵みを得るのです。
聖なる漁夫と言われたイエスの一番弟子のペトロは、最初から立派なキリストの弟子であったわけではありません。主がガリラヤ湖畔で人々に話しておられる時、漁を終えて疲れ果てて網を洗っていました。話を終えると、主はペトロに「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」と言いました。ペトロは「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」とその通りしました。すると思わぬ大漁を経験したのです。「お言葉ですから」と自分を従わせることが御言葉を食べることです。(ルカ5:1以下)そしてペトロは「主よ、離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言っています。「先生」から「主」に変わっています。これが腹に苦いことでしょう。そして主から「人間をとる漁師になるのだ」と召命を受け一切を捨ててイエスに従ったのでした。
ここで、自分の口に甘いか苦いかと言うことが問題ではなく、「神の秘められた計画が成就する」ことこそが大切なのです。今、私たちキリスト者に求められていることは何でしょうか。豊富な知識や大きな事業ではありません。困難と自らの非力、矛盾の中で「取って食べよ」との主の御言葉に「はい」と答える信仰です。今日御言葉を食べましょう。
2014/7/13 取って食べよ