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2014年6月29日 聖霊降臨節第7主日礼拝
「悪魔も天使」
榎本 栄次 牧師
ヨハネ黙示録 9章1-21節
一時的に自分に都合の悪いことが後になって,それが無くてはならないことであったことに気づかされることがあります。悪魔というのは神から人を離すことを使命にしている存在を言いますが、その悪魔も実は神の使いであるとすれば、その時こそ神に依り頼むことでしょう。聖書では悪魔も天使の一人です。とんでもない、どうしてこんな事が起こっていいのかと思われることも、神さまの御心の外にあることでありません。
黙示録9章は、第五と第六のラッパを吹き鳴らしたときに起こることが記されています。「一つの星が天から地上に落ちてくるのが見えた」(1)星は天使のことです。天使というと、背中に羽の生えたエンジェルでしょうか。非常に優しそうな底抜けの善意の持ち主を想像します。しかし、聖書の言う天使は必ずしもその様なものばかりではなく、サタンと言われるような暗いものをも司るのです。
「底なしの淵に通じる穴」があり、「太陽も空も穴からの煙で暗くなった。そして煙の中から、いなごの群が地上へ出てきた」とあります。底なしの穴ということは、「深淵の闇」(創世記1:1)であり、苦しみのどん底、悪魔の根拠地を意味しています。その穴から煙がたちのぼり、そこからいなごの群が出てきた、とあります。いなごとか、獣、獅子、蛇などが黙示録にはよく出てきますが、これらはみな悪魔的な存在です。いなごは日本のいなごのようなものではなく、昼も暗くなるほどの大群で現れ、瞬く間に青いものを食い尽くしてしまいます。人間にはどうすることもできない害をもたらします。パレスチナの人たちはいなごの害を最も恐れており、その中に神の怒りを見ていたのです。
神はこの悪魔に対して「殺してはいけないが、5ヶ月の間、苦しめることは許されていた」。ここに、その悪魔たちを許したり、言い渡したりする主語は大悪魔ではなく、神ご自身であることに大きな意味があります。神の許し無くしては悪魔も何一つできないということです。そしてそこには神の御心である愛が裏打ちされているのです。これはキリスト教信仰の大きな特徴です。たとえば日本の宗教では、光の神と闇の神とがあって、なお美の神とまかび神がいます。びの神は人に幸せをもたらし、まかびの神は次々と人に災いをもたらします。だからまかびの神にとりつかれたら捧げ物をして「お祓い」をしなければならない。聖書の神は悪魔も神の支配下にあって、天使の一人であるのです。ヨブ記はそれをテーマにした物語です。サタンは神に許された範囲で活動します。だから悪魔のどん底に落とされたときにもそこも、また神の御支配の中であり、神の激しい愛の中に捕らえられているのです。
もし闇がそれだけであるならば不安ですが、夜はあっても必ず朝が来るように、神の平安が私たちを覆ってくださっているのです。そして「額に神の刻印を押されている人」はその苦しみから逃れさせられるのです。キリストの愛に生きる者は苦しみから逃れさせて貰えるのです。病気になったり、思わぬ不幸が襲ってくることがありますが、そこにも神のみ手があり、そのことを通して神に立ち帰る大切な出来事なのです。神は私たちキリストにあるものを愛し、育んでくださいます。「死の影の谷を歩むとも災いを恐れません。あなたがわたしと共にいてくださるからです」〔詩篇23:1〕
2014/6/29 悪魔も天使