今週の説教要旨

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2014年6月8日 聖霊降臨節第1主日礼拝 ペンテコステ

「聖霊降臨」 

榎本 栄次 牧師

使徒言行録 2章1-13節

 信仰は神の約束を信じて、住み慣れたところを出ていくことであり、又主の約束を待つことです。そして教会はその約束を頂くために集められ、又散らされていくキリストの群です。今朝はペンテコステの礼拝を守っています。聖霊降臨日と言って、弟子たちが聖霊を受けて、主の証人として外に出かけた日です。この日が、いわば教会の誕生日です。教会は自分たちのいるところから新しい主の声に聞き従って出て行き、又この世に向かって発信していなければなりません。その故に困難がやってきても神様は必ず助け主を送って下さいます。それを聖霊というのです。私の持っているものではとても太刀打ちできないことであっても、信じているときにそこに大きな恵みが与えられるのです。それは精神論ではなく、キリストの故にアーメンとなる事実です。じっと我慢をしていれば何とかなるというのは信仰ではなく、主の言葉を受けて待つのです。主の御言葉に向かって待つのです。そこには聖霊が働きかけてくださいます。復活が主に身に起ったことですが、聖霊降臨は私たちの身に起きることです。私の側に起こる神の業があるのです。
主は、天に昇られる前に弟子たちに言い残されました。「父の約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)、(使徒1:4)と。弟子たちはユダヤ人たちの迫害を恐れながらも、エルサレムにとどまって、父の約束されたもの(聖霊)を待っていました。「彼らはみな、心を合わせて熱心に祈りをしていた」(使徒1:11)のでした。5旬節の日が来て、イエスの弟子たちが集まっていました。この日は、ユダヤ教の収穫祭の日であり、ギリシャ語でペンテコステ50の意味ですが、過ぎ越し祭(出エジプトの前日)の第2日(主の復活日)から7週間後がイスラエルの人たちにとって、飢えたときに神の恵みを頂いた恵みへ(マナの奇跡)の感謝の日です。この日は、ユダヤ人にとって神の約束の恵みへの感謝の日でした。
 主イエスの復活から50日を経たとき、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らの座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(1-4)のでした。この状況を目にした人々は驚きました。信心深い散らされたユダヤ人(ディアスポラ)たちはエルサレムに帰ってきていて、ガリラヤ出身の人たちから自分たちの国の言葉で神のことを聞かされたのに驚きました。ガリラヤは辺境の地であり、そこに住む人たちは軽蔑された人々であり、田舎の漁師や大工のようなただのおじさんたちであったからです。
 神の民になるのに、この50日が必要でした。それは不安と孤独の時です。いろんな逆風が吹いてきます。仲間だと思っていた人に裏切られたり、自分の能力のなさのために人々を混乱させたり、眠れない夜が続くでしょう。イスラエルの民は、出エジプトして、神の手によって導かれたのですが、特に最初の50日は大変な混乱がありました。ここでマナをいただき、主の恵みに支えられたことは民族にとって忘れられない出来事でした。それを祝うのが収穫祭です。
 イエスの弟子たちも主が天に昇られた後、同じような不安にとりつかれたのでした。彼らはガリラヤ人であり、優れた人たちから見れば貧弱で頼りない集団でしかなかったでしょう。教会にはこの50日が必要なのです。そうして教会になるのです。御言葉に従って新しいところに出ること、主のもとに集まること、そこから50日が始まるのです。そこで私たちの力を見ると不安になりますが、それらを主にゆだねることです。あれが無い、こんな恐ろしいことが起きると不安です。教会は出ること待つことで神に出会い、教会になるのです。主の前には自分が何者であるかということは問題ではありません。聖霊を受ける時、その人は生きた存在にされます。その約束を頂くために私たちは週毎に集まって礼拝をします。そして、主の使命を受けて散らされていくのです。約束を信じ待つ時、必ず主は助け主を送って下さいます。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。