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2014年5月18日
「巻物を開く者」
榎本 栄次 牧師
ヨハネ黙示録 5章1-14節
旧約の預言者たちは来るべきメシアのことを小羊にたとえています。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:7)「狼と小羊とは共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、」(イザヤ65:25)。新約聖書においてもイエス・キリストのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と紹介しています。小羊とはどこまでも弱い者が、真理に通じているということです。それは聖書の示す福音の内容と深い関係があります。小羊は、狼に比べて弱く、真実で、優しく、犠牲にされるというイメージです。その小羊が世界を支配し、その混沌から救い出す絶対的な権威が与えられるということに、神の逆説・パラドックスが隠されています。それは私たちのことと関係があり、この惨めな者のところに神の真理が現れたということを示しています。
ヨハネ黙示録5章では、7つの封印された巻物と、小羊に対する礼拝が書かれています。巻物とは神の真理です。その巻物が7つの封印に閉じられていて、それを開くことのできる者、見ることのできる者はだれもいませんでした。7とうのは完全数ですからあらゆる真理がこの中に完全に封印されているのです。それは無欠陥というよりも隅々までということです。誰も知ろうとしない私の現実のところに神が来てくださったと聖書は語るのです。小羊である主が「私は真理であり、道であり、命である」と言われます。
「巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた」と記されています。それが開かれないと自分の存在意味がなくなる。それなくしてはすべてが空しくなってしまうから泣いているのです。まさにキェルケゴールが言うように「死にいたる病」での叫びです。ローマ7:24 「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」というパウロの嘆きに通じます。どん底の暗闇で、誰もたずねてこない、自分自身さえ暗闇のどん底であり、見捨てられ、バカにされたところです。
私たちは色々な不足を感じ、不満が尽きず、欲には限りはありません。それらが満たされればきっと幸せになれるはず。何でも可能になる巻物がどこかにあるはずと考えます。しかし、カール・ブッセの「山のあなたの空遠く」にあるように、そこに行くとやはり同じ気持ちか、もっと空しくなるものに出会うでしょう。そして泣くのです。
さてヨハネはそのような私たちに「泣くな。見よ。巻物を開くことができるお方がいる」と語りかけます。それは屠られた小羊です。金でもない権力でもない十字架にかけられたイエス・キリストこそがすべての真理の鍵を持っておられるからです。そして全てが小羊の前にひれ伏して新しい歌をうたうのです。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして讃美を受けるにふさわしい方です」と。キリストのところに私たちの真理が隠されています。イエス・キリストがそれを開いてくださる。何と大きな喜びでしょうか。何の代償もなしに神は私たちに真理の巻物を開いてくださる。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて食べよ。来て、銀を払うことなく、ぶどう酒を得よ」(イザヤ書55:1)お金を積むことでもない。功績を重ねるのでもない。ただ主イエスに求めるときに与えられるのです。
2014/5/18 巻物を開く者