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2014年5月4日
「飽食者の飢え」
榎本 栄次 牧師
ヨハネ黙示録 3章14-22節
「アーメン」とは「まことに真理です」と言う意味です。キリスト教信仰は、神からの真理に生きることです。
ラオデキアの教会から学んでみましょう。この町は、フィラデルフィアから東南70キロにあり、東10キロにはコロサイの町があり、交通の要路で金融の中心地として栄えていました。毛織物業が盛んであり、ラオデキヤには医学校があり、目薬は世界的に有名でした。教会には銀行家、織物業者、目薬商人や貴婦人が多く、経済的にも豊かな教会でした。外見的には安定しており、自分たちこそ主に祝福され、豊かな群であると自認していました。彼らが特別不道徳であったり、教会に不熱心であるというのではありません。しかし7つの教会に書き送られた手紙の内、「アーメンたる方」は彼らに最も厳しい言葉を投げかけています。それによると、
「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかどちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15,16)
ここで言われていることは、信仰が冷えているとか、熱心に燃えていると言うような状態を言っているのではありません。「冷たい」とは自分の中に氷点のような罪を認めることです。また「熱い」ことは、主の恵みをいただき驚いていることです。ラオデキヤの教会の人たちは、自分たちの「豊かさ」のために神の助けを必要としませんでした。しかしその内部は、派閥争いや裁き合いで「吐き出す」ような矛盾が満ちていました。お腹がいっぱいでしたが、誰よりも飢えていました。
主は「悲しんでいる人は幸いです」と言われました。これが冷たいことです。それは主によって天国に招かれるからです。悲しんでいる人は主に慰められるから幸いなのです。私たちは自分の持っているもので熱くならねばと思うから、冷たくなることが怖いのです。辛いときに辛いと思えないから生ぬるくなるのです。主の恵みを受けないで、自分で神の国に入ろうとしたり、自分でキリストになり、慰めようとしたりすることが生ぬるいということです。
三浦綾子の「氷点」は、人の原罪をテーマにしています。病院長辻口啓介の夫人である夏枝は村田医師の愛の告白を受けて夫の出張中、3才のルリ子を外にやって話をしていた。その間にルリ子が誘拐され殺される。辻口は妻夏枝の不倫を疑って、犯人は独り子を残して自殺するが、その遺子であるという子どもを引き取って夏枝に育てさせる。それとも知らず夏枝はその子を陽子と名付け、ルリ子のように愛し育てる。陽子は愛らしく素直で賢くてかわいい子として成長する。しかしやがてその秘密は夏枝の知るところとなり、陽子をいじめるようになる。そしてついに陽子自身に出生の秘密を知らせてします。主人公の陽子はどうしようもない罪に気づき遺書を残して自殺を図ります。作者はこの遺書を書くためにこの小説を書いたという。「自分が正しければ、たとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸を張って生きていける強い人間でした。・・けれども、いま陽子は思います。一途に精一杯生きて来た陽子の心にも氷点があったということを。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。」陽子だけではない。どのように優れた人の中にもこの氷点はあるのです。
三浦綾子は教師として子どもたちに皇国日本を一生懸命教えてきた。どの教師よりもいい教師になろうとしてきた。しかし敗戦により、それがみな虚構であったことを知らされた。彼女の心は冷え切ったのです。ここに氷点があった。そしてその氷点を沸点にまで高める「アーメンなる方」である神に出会ったのでした。それを伝えたくて氷点を書いたと言っています。
飽食者の飢えがあるのではないでしょうか。それこそが最も深刻です。何不自由なく満ち足りている。しかし何かが足りない。主は富める青年に「なお一つを欠く」と言われた。(ルカ18:22)
それはプラス1ではない。それ無しには何も意味を持たない一つです。この一つを求めそれに繋がることこそが必要な無くてならない一つです。
2014/5/4 飽食者の飢え