今週の説教要旨

HOME   >  今週の説教要旨

2014年4月27日 

「開かれた門」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネ黙示録 3章7-13節

 主イエスは「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)と言われました。なぜ貧しい人が幸いなのでしょうか。それは貧しいことが幸いなのではなく、そこで神にしがみつくから幸いであると言われたのです。キリスト教信仰は信念や魔術と区別されます。もし誰かの念力でこの世の何かが動いているように見えても、それは神への信仰と何の関係もありません。神の前では宗教も自分の立場もこれまでの経験もあらゆるものが膝をかがめるのです。
フィラデルフィアの教会に宛てた手紙から学んでみましょう。この教会はスミルナの教会と同じように非常に貧しい小さな教会でした。そればかりか教会に対する迫害は尋常なものではありませんでした。すぐにも消え去るのではないかと思われていました。しかしこの教会は、小さいが故に主により頼み、キリストへの信仰が内に燃えていたのです。だからヨハネはイエス・キリストの言葉としてこの教会の人たちを「見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない」と評価しています。
 彼らは「力は弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしを知らないと言わなかった」のです。彼らを脅かす力は非常に怖ろしく、大きな権力であり、永遠で圧倒的に思われました。それに比べて彼らの力は無に等しく、すぐにも踏みつぶされてしまうかに見えました。有力な者もおらず、自分たちの確信も頼りなく、強いものではありません。それは嵐の中で、海に浮かぶ小舟のようでした。そんな時、彼らを支えたのは「イエスは主なり」という信仰告白でした。(マタイ8:23以下)彼らは主の名を呼び合って、ひたすら祈る集団に徹したのでした。
 自分の中に豊かなものがあるときは神の祝福をたたえることができますが、何もなく恐怖の真っ只中に置かれたとき、今まで頼りにしていたものは全て泡と消えます。それまで神の全能性を確信していたのに、自分の身に何かが起きると揺らぎます。それは自分の造った神の像であったからです。それが壊れるとき、信仰が無くなるのではなく、そこから始まると言っていいでしょう。神の側からの出来事です。フィラデルフィアの人たちはその神にしがみついたのです。
 イスラエルの人たちは、はじめから堅い唯一神信仰を持っていたわけではありません。列王記下25章にはイスラエルが全てを奪われ滅亡した状態が記されています。国も宗教も親族も皆奪われバビロンに奴隷として連れて行かれました。今まで大事にしてきたものがすべて奪われたのです。ソロモンの造った神殿も、民の信仰の象徴であったあらゆる奉納物もみな壊され持ち去られました。国は滅び王様も捕虜としてバビロンに連れて行かれました。これでイスラエルも終わりだ。信じてきた神も無力だった。みな絶望の中で信仰を捨てるだろうと思われました。しかしイスラエルの信仰はその只中で生まれたのです。捕虜となって全く無力な存在でした。正にその時、イスラエルが天地万物を創造し、今も支配している神と出会ったのでした。そこで創世記が書かれました。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして光があった。
 フィラデルフィアの教会の人たちも異教社会の中で激しい迫害に耐えながら、弱く小さな存在であるが故に、全能の神にしがみついたのでした。その時にもではなく、その時だったから主を知らないとは言わなかったのです。どんなに強い力も、どんなに激しい迫害もキリストの愛から彼らを引き離すことはできなかったのです。(ローマ8:37)物質的にも、精神的にも弱い人たちが、それにもかかわらず、否それ故に神は招いて門を開けてくださっているのです。そしてその門をだれも閉じることができないように守ってくださいます。神のところに行くのをだれも止めることはできないのです。現実社会は神無きがごとく、悪が支配しているようですが、主はすでに勝利されており、「だれも閉じることのない門」があなたの前に開かれています。

音声をお聞きいただけます

2014/4/27 開かれた門

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。