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2014年4月20日 イースター
「生きよ」
榎本 栄次 牧師
ヨハネ黙示録 3章1-6節
イースターおめでとうございます。復活信仰とは、死なないことではありません。この肉体が死んで、主の復活につなげられ生きることです。福音は「生きよ」との神さまからのメッセージです。一人の人が生きるために神の独り子が十字架にかかってくださったというのが聖書のメッセージです。聖書が生きよと言うときは神の掟を守ることを含んでいます。すなわち耳からだけではなくて、手を動かすことです。それは生物的な生ではなく、自分の存在が自覚され、一つの意味を持つことになります。言い換えますと自分の働きが神さまに結びついていることです。目を覚まして、神のみ業をしっかりと見定めつつ、日々の生活が清められ、聖化されていることです。
サルディスの教会への言葉から学んでみましょう。この町は紀元前6世紀の頃、リュディア王国の首都として栄えた大都市の一つでした。現在のトルコの中にあって、ティアテラの近くでヘルムス川とその渓谷を見下ろす高原であり、周囲は絶壁に囲まれて、難攻不落の要塞都市でした。そのためにサルディスの人たちは油断をして、過去2回にわたり戦争に敗れるという苦い経験をしました。B.C.549クロス王によって、B.C.218アンティオコス2世によって破れました。その理由は、まさかこんな絶壁を登ってくる敵はいないだろうと高をくくって、城の中はほとんど無防備に近い状態の時、岩の裂け目に足をかけてよじ登ってきた兵卒に不意をつかれたのでした。
教会も比較的裕福で、そう束縛もなく自由に過ごせていました。外見にはとても恵まれた教会でした。ヨハネの指摘する問題は、これまでのエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアテラなどの教会への手紙に比べて際だった違いがあります。それはこれまでの教会は評価するところを挙げた上で、「しかし責めるべきところがある」と叱責や警告が述べられているのに対して、サルディスについては、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(1)とはじめから叱責が語られています。 サルディスの教会は異邦人の攻撃も迫害も、ユダヤ人の誹謗、中傷など外部から悩まされることがなく、大変幸せなことであり楽な状態でした。しかし誰からも干渉を受けないと言うことは、よいように思いますが、逆に言うと、「誰からも関心を持たれなくなったこと、教会が力を無くして遠慮ばかりするので攻撃する必要が無くなった、つまり教会としての命がなくなっていた」(バークレー)とも言えるのでした。
申命記1章には「イスラエルよ、今、私が教える掟と法を忠実に守りなさい。そうすればあなたたちは命を得る」とあります。これは掟を守ることが命を得る条件であると言うよりも、掟そのものが命であることを勧めているのです。そしてイスラエルに対する大きな祝福でした。イスラエルにとって律法は命でありました。「生きよ」と言うことは主の律法を守ることです。神さまの掟に縛られることが生きることなのです。その律法は私たちを縛り殺すためのものではありません。そこに主の聖霊が下ることによって命にされるのです。私たちの業がそれだけであると死んだものですが、主が「生きよ」と声を下さることによってその業が生きるのです。だから私たちの働きは意味のないものではなくなるのです。主の前で堂々と生きられるのです。
「衣を汚さない人が数人いる」というのは神の意志に従って生きている人のことでしょう。この人たちこそ「死にかかっているようであるが生きており、」(コリント第2、6:9)という人たちです。福音は、「生きよ」という神の祝福の命令で、復活信仰です。肉体的に死んでも神にあって真に生きます。サルディスの教会が物質的には豊かであり、安定していたけれども、本当の命は死にかけていたように、私たちもどうでしょうか。生かされた日々を送っていくでしょうか。それとも瀕死の状態でしょうか。生きるのは自分たちが何を食べているかではありません。この歴史のなかで、神とつながって、どう生きているかが問われます。神の御支配の元で新しい命に生かされつつ、日々を過ごしましょう。
2014/4/20 生きよ