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2014年4月13日
「上に立つ権威」
榎本 栄次 牧師
ヨハネ黙示録 2章18-29節
人間は不完全であり、克服されなければならない課題を持ちつつ、完全に向かって身を伸ばす存在です。どの人も神の前で発達段階にあり、神に向かって祈る者です。途中の者であり、相対的存在で、それ故にすばらしい存在です。その相対的な者が神からの上に立つ権威を授かり、畏れつつ生きるのが信仰者の生活です。私たちはそこで立ち、またその方の前に膝をかがめ従うのです。
今日はティアテラにある教会への言葉から学んでみましょう。ここでヨハネは、神の子イエス・キリストのことを「目は燃える炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子」と表現しています。厳しく裁く輝かしい権威の持ち主として描いています。この町は現在のトルコにあるアキサルと言うところで、ペルガモンの南東約60キロ、ヘルムス川の畔に位置する肥沃な平原地帯です。紫の染料で知られた町で繁盛していました。太陽神アポロが、「輝かしい権威」の守護神として祭られていました。この地域の人々の信仰心に訴えつつキリストの権威を表現をしたものと思われます。アポロではなく、キリストこそが主権の持ち主であることを主張しています。そしてヨハネはこの教会について、信仰が質的に成長していることを高く評価しています。異教徒の生活基盤の中で、苦しい信仰生活を余儀なくされながら、信仰の戦いを通してその行い、愛、信仰、奉仕。忍耐について、はじめに比べてすばらしい成長したというのです。
ここで、信仰は成長することが説かれています。信仰は静止したものではなく、生きて働く命です。ですから進歩し発展するものでなければなりません。キリスト教信仰は死んだ神ではなく、生きた神であり、私たちに求め命ずる人格神です。神が主体であることと、私たち人間がその神に向かって進歩し発展することとは矛盾しません。そうであることが神の業とも言えるのです。今の状態をそのまま固定しているというのでは信仰にはなりません。
ヨハネはティアテラの教会が成長していることを大きく評価しながらも、この教会にも責められるべきところを指摘します。それはイゼベルという女預言者のことでした。その教えは霊的なことを強調するあまり、この世の実際問題に対して目をつむらせるものでした。彼らは信仰を精神的なところでのみ捉え、この世の中における一切のことを悪と定めます。そこでは親も兄弟も友人も正義もこの世のものである限り、すべて悪になり、人のなす発展や改革を俗なることとします。彼女の教えは、神は霊的な完全存在でなければならず、故にキリストの受肉すなわち、キリストが肉体をとってこの世に来られたことを否定し、神の子キリストは霊的存在であるとします。その上で実際問題には目をつむらせ、「みだらなこと」「悔い改めようとはしない」生活を楽しむのでした。
このように信仰の名によって、霊的興奮状態を最高とし、一方で社会的にも決して認められないようなことを平気でやるようになっていました。現実は現状維持をよしとします。しかし生ける信仰は私たちを神に向かわせます。そして神は私たちを新しいところへと成長させてくださるのです。偶像には固定されたものであり、命はありません。そして悪魔は人を生ける神から何とかして遠ざけようとします。どんなものにも具体的なものには必ず欠点があります。それは成長しなければならない課題です。神の恵みに出会うチャンスの場でもあります。その不完全なところだけを取り上げて人間の行為を無意味なこととすることは神の御心ではありません。その悪魔の教えをヨハネは厳しく責めたのです。この世界を見ると、悪が支配し、何かに期待することは愚かなことのように思われます。しかし、そこでこそキリストは十字架の苦しみを担っておられ、戦っておられます。無力に思える者をもキリストは必要とし、彼に上に立つ権威を授けてくださいます。そこで予想もしない力が与えられているのです。
受難節にあたり、私たちもこの権威に押し出されて、復活の主に出会わせていただきましょう。絶望的な世にあって、光を求め、主により頼むときに「上に立つ権威」を任せられるのです。人は変わるものであり、固定したものではありません。許された者として大胆に進みましょう。
2014/4/13 上に立つ権威