今週の説教要旨

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2014年4月6日

「否という救い」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネ黙示録 2章12-17節

 信仰に立つということは、自分の立場から離れ、神の側に身を任せることです。そこでは神の受容(然り)と共に神の強い壁(否)をいただくことになります。
ペルガモンの教会への言葉から学んでみましょう。ここでは神のことが「鋭い両刃の剣を持っている方」と表現されています。私を守ってくださる優しく強い神と、私を断罪する厳しい神が表現されています。「神の愛」を説くヨハネが、ここでは同時に怖ろしい神を紹介しています。
 ペルガモンには皇帝礼拝の神殿が設けられており、これへの礼拝が強制されていました。キリストへの信仰の故に迫害が激しく、ついにアンティパスという殉教者を出すに至りました。恐怖の世界におかれた彼らでしたが、迫害に耐え、信仰を堅く守っていたのです。そんな中でキリストへの信仰を誤魔化しません。むしろ外からの圧力に対しては信仰を堅くし、揺るがなかったようです。しかし内部にある弱さに対してはあいまいでした。団結を強くしようとする思いやりの余り、内部批判ができなくなっていたのです。「バラムの教えを奉ずる者」とは、金銭に対する誘惑に負けることでした。「ニコライ派の教えを奉ずる者」も同様に不道徳と偶像へと誘惑でした。彼らは自由という名の下に、自らの罪に対する感覚が薄れていたようです。そのことをむしろ進んだ信仰的なことのようにとり、教えてもいました。外からの攻撃に対しては、頑強に身構えることができた彼らでしたが、内部のことについては、甘くなり、「それくらいのことは」と弱くなっていました。他人に対しては鬼の検察官となり、自分に対しては優秀な弁護士になるのです。
 サムエルの師匠エリは優れた祭司でしたが、だらしない自分の子どもたちには強く立てませんでした。子どもたちは自分の父親が大祭司であることを良いことに、神殿に捧げられた物を私物化したり、女官たちとみだらな関係になっていたようです。誰もそれを注意できず、父親の祭司エリも、反抗を恐れ甘くなりました。愛を口実に、また神に任せるといい、何もできなかったのです。それは、愛することでもなければ、神にゆだねることでもなく、逃げているに過ぎないのでした。一時的に反感を買ったとしても言わなければならないことは言う。その後のことは神さまがしてくださる。そこに立つことこそ委ねることです。エリはそのことができず、遠回しに一般論を並べたり、説教するばかりでした。そのために子どもたちを失い、自分の祭司としての働きも中途半端に終わっていました。(サムエル記上3)
福音を、何をしてもよい、何もしなくてもいいという自由奔放と捉えると、結局自分も他人も失ってしまいます。深いことのような気がしますが、信仰をいい加減なものにしてしまい、そればかりか、自分も相手も捨ててしまいます。その様に考えるのは自分の感覚を中心に考えていることです。キリストの愛を甘くて弱い無力なものにしてはなりません。
 ヨハネはそれを「バラムの教え」「ニコライの教え」と厳しく非難しています。神は愛です。しかしそれは無力な観念ではありません。私たちを救い、生かしてくださる力です。力は現実に働きます。私たちはそれを信じ、それに身を任すのです。誰か有力な人が教会や信徒を支えたり助けたりするのではありません。神様が私たちを守り育ててくださいます。そこに立つことが委ねることです。私は時々、この教会や教会の人たちを本当に愛しているかと問われることがあります。申し訳ないと思うのです。
 怒りのない愛はない。裁きのない許しはない。汗をかき苦しむことのない安逸はないでしょう。厳しい裁きとキリストの十字架に裏打ちされた愛こそが真理です。母親が自分の子どもを誘拐されたとき、何とかして救い出そうと叫ぶでしょう。その時に加害者に対する怒りは計り知れないほどです。その怒りは愛いに通じるものです。いけないことについてはっきりと「否」を言えることはその人の救いにつながります。神は私たちに時には「否の救い」を下さいます。どうでもいいことではなく、譲れないところに神の聖霊が働くのです。その導きを感謝して受けましょう。




音声をお聞きいただけます

2014/4/6 否という救い

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。