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2014年3月30日
「十字架の世界」
松田 央 牧師
マタイによる福音書 27章45-54節
教会は古代から現代まで一貫して十字架を神の救いのシンボルとして尊重します。しかし、本日のテキストではイエスの十字架において神は存在していないように思われます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの叫びは、神が存在していない状況を表しているように感じられます。そこである哲学者は、イエスの十字架において神は死んでしまったと宣言しました。とりわけ現代の哲学者や神学者の中には、イエスの十字架の暗闇を強調して、神が存在しないという暗闇の中にこそ真実があると主張する人もいます。しかし、今朝のテキストをそのように解釈すべきではありません。マタイの報告によると、暗闇は永遠に続いたのではなく、3時間で終わったのです。しかも、イエス様が死んだとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返ったのです。
私たちが自然現象を注意深く観察するならば「諸行無常」であることに気付きます。朝は昼となり、昼は夜となり、そして次の朝がやって来ます。夜の暗闇がいつまでも続くわけではありません。暗黒に見える十字架の状況は静止状態にあるのではありません。イエス様をめぐる状況は次々と変化していくのです。十字架の死から復活へと劇的な転回を遂げていくのです。そのようなダイナミックな流れの中で今朝のテキストを読む必要があります。
フランスの小説家アルベール・カミュは、イエスを神に見捨てられた人間として理解しました。このような思想は今日の教会の中にも入り込んでいます。つまり、イエスは神から見捨てられた人間であった。あるいは十字架においてイエスは神の救いに絶望した。イエスは十字架において弱い、無力な存在であった。そのようにイエスの弱さ、無力さが強調されています。しかし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、信仰を捨てた者の声ではありません。ほとんど絶望に近い状況にありつつ、なおも神によりすがる者の声であります。これは完全な人間だけが到達できる信仰の境地であり、また神の子だけが経験した苦しみの表現なのです。イエス・キリストは私たちの罪を引き受けるために、私たちの絶望的な状況を引き受けたのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、キリストの個人的な心境を表したものではなく、すべての人間の絶望の苦しみを引き受けた結果、生じたものであります。したがって、私たちはこの叫びにおいてキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを感じ取ることができるのです。
十字架のイコンでは、十字架の時間と復活の時間という二つの時間が同時に存在しています。そこでイコンのキリストは、時間を超えて今日の私たちにも現れているのです。私たちはイコンの世界に入ることによって、私たちの罪を全身に引き受けているキリストに出会います。キリストは十字架で死ぬことによって、多くの新しい命を生みだしたのです。
キリストの死後、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返りました。これはキリストの死によって新しい命が生みだされたことを意味しています。私たちも十字架上のキリストに導かれながら、復活の世界へと歩んでいきましょう。
申し訳ございませんが本日の説教の音声はご利用頂けません。