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2014年3月23日
「私は知っている」
榎本 栄次 牧師
ヨハネ黙示録 2章8-11節
信仰は自分の命を永遠のものにつなげることです。自分の命を拡大延長することではありません。自分をどう捉えるかと言うことですが、それによって生きる姿勢が違ってきます。自己拡張主義は結局、絶望になる空しいものです。それは戦争を生むばかりです。
神さまの救いに入れられ、永遠につながること、キリストの十字架の愛はそこにあります。そして私の貧しい命が尊いものであることに変えられ、救いに入れらるのです。それは神さまが私のことを知っていてくださると言うことの中で生きることです。どんなに辛く苦しいことであっても、それを神さまが知っていてくださる、そこに意味を見つけ,耐えることができ、またそのことを喜ぶことができるのです。
スミルナは小アジア、今のトルコの西海岸にあり、交通の要所で大きな町ですが、そこにあるキリスト者の群(スミルナの教会)は貧民が多く、その苦しみは大変なものでした。彼らはユダヤ人改宗者が主で、皇帝礼拝を拒否していたことで大変な苦しみを負っていました。礼拝するにもちゃんとした会堂がなく、民家の二階(アッパールーム・家の教会)を教会としていました。信徒たちの生活は貧しくて、絶えずトラブルと向かい合わせの生活でした。お金さえあれば何の問題もないのに。貧しさの故に心が狭くなり、争いも多く、悲しい涙の日々の人が多くいました。豊かなユダヤ教の人たちからバカにされ、色々とそしられ、あらぬ疑いをかけられて牢に入れられる人もいました。そのままだと倒れ込んでしまっても不思議ではなかったのですが、彼らは自分たちの苦しみを神さまのところに持っていく信仰に立っていました。だから困難な中にあって、また強力な反対者を相手にしても恐れず、「最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方」への信仰を堅くして耐え抜いていました。彼らにとって家の教会での集会は命であり、倒れ込んでしまいそうな中で集会に出ることにより励まされ、耐えられ、泉のように力づけられていました。余裕があるから集会に出るのではなく、主を礼拝することにより余裕ができたのです。それに出ていないと倒れ込んでしまう。どんなに辛いときにも、もっと辛い人がしゃんとしている姿を見て励まされるのでした。外見的には貧しかったけれども、実は豊かでした。「 人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(コリントの信徒人へ手紙二 6:9,10)そのようななスミルナの教会の人たちに対して、神は、「私はあなたの苦難や貧しさを知っている。だが、あなたは本当は豊かなのだ」と言います。
ここで「知っている」という意味は、単なる知的意味以上に「関係を持つ」という内容が含まれています。「私はあの人を知っています」という場合、名前とか、どこの出身か、今どこに住んでいるかぐらいのものでしょう。よく知っているという場合でも、身内は誰か、職業は、家族は、出身校は、性格は、どんな人とつき合っているかぐらいのことでしょう。一歩踏み込んでその人の本当の気持ちとなると分かっていないことの方が多いのです。「君の言っていることは分かるよ」等と言うときには、ほとんど分かっていないことが多いのではないでしょうか。
聖書の「知っている」という意味は、情報の量ではない。その関係を言うのです。よいところばかりではなく、弱さも罪も、その痛みも知って同じ所で痛むと言うことです。
人が力を得て強くなるのは、理想的な生き方を教えてくれる人ではなくて、共に重荷を負ってくれる相手がいてくれることです。本当のことを分かってくれる人がいるときでしょう。神さまが「私は知っている」と言う時、私の弱さにつながる関係をもって下さることなのです。その時、強く立てます。主イエスは、私たちの弱さや貧しさを知りつつ、「貧しい人たちは幸いである」と言ってくださいます。
2014/3/23 私は知っている