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2014年3月16日
「初心忘るべからず 」
榎本 栄次 牧師
ヨハネ黙示録 2章1-7節
変わらない永遠のものと日々変化するものとがあります。変わらないものは神の側にあり、私たちの持っているものはどんなことであれ変わっていくものです。変わらないものを変えようとしたり、変わるものを変えないでおこうとするところに混乱の原因があります。
ヨハネ黙示録は、黙示文学の手法を用いて初代教会の人々に書き送られた牧会書簡です。宇宙の大予言のような印象を受けますが、1世紀末のキリスト者が直面した信仰とその理解のために書かれた書簡です。7つの教会に当てて書かれています。今日のテキストはエフェソにある教会への言葉です。この教会は苦労と忍耐の中で、「私の名のためによく我慢し、疲れ果てることがなかった」とあるように、信仰をしっかりと掲げてよく忍耐していました。それを評価しつつ、「しかしあなたに言う(責める)べきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と言っています。信仰のベテランになって、何もかも分かっている。分かっていない人に教えなければと、注意が他の人にばかり向かい、自分のことはもう変わる必要はないと捉えていたようです。自分はもう救われているから良い。救われるべき人のためにしっかりと忍耐し、務め、世話をしなければならないと考えているました。信仰の説明者・ガイドにはなっているのですが、自分の信仰については注意を必要としていないのです。聖書を読んだり、説教を聞くとき、「いつもあの人のことだ」と思う人です。
「初めの愛」とは何でしょうか。それは時間的な愛の変化を言っているのではなく、愛の本質を問うものです。愛は変わらないものでしょうか。結婚する前に告白した愛は、70歳を過ぎても変わらないものでしょうか。「あの誓いは何だったのですか」と責められそうです。しかし若いときの気持ちがそのまま持続することはあり得ないことでしょう。その時の愛は嘘ではないけれども、それは生き物ですから時間と共に変化し、消えて無くなるものです。愛は、日々生み出していくものです。そうしないと枯れて無くなってしまいます。
さてこの「初めの愛」とは、初々しい愛とも言えますが、同時に失敗だらけの愛です。それは不安と嫉妬と喜びと安心と不安の入り混じった愛です。その時々に新鮮に出会うものです。キリストの愛に出会って、私のような者がかけがえのない者として愛された。何という喜びでしょう。それにふさわしくない自分を顧みて、少しでもその愛に応えねばと考える。キリストの愛によって益々自分の至らなさを知り、また許しの喜びにふるえるのです。ここでの「はじめ」はヨハネが福音書で述べている「はじめに言葉あり」(ヨハネ:1)です。時間ではなく、根本を意味します。それが私たちをそうあらしめているものがはじめです。愛することをあらしめること、結婚で言えば二人を結ばせているものは神の御心であるとすることです。どんなに相手の条件が変わったとしても、神さまが会わせてくださった相手であると言うところがはじめの愛なのです。それは迷いと不安と喜びと期待が入り交じっているのです。何の迷いもないところではありません。
1400年頃の能楽師、世阿弥の言葉に「初心不可忘」(花鏡)というのがあります。この言葉はだいたいはじめの志を忘れるなと言うような意味に使われますが、本来の意味は少し違います。「初心」というのは初めて経験する不完全な初心です。世阿弥は60歳を過ぎてから花鏡(かきょう)の中でこの事を述べています。そこには「是非初心忘るべからず、時々初心忘るべからず、老後初心忘るべからず」と言う3つの初心があるのです。「是非」というのは良いことも悪いこともと言う意味で、若い時は、未熟で失敗ばかりする、それが初心です。それを忘れるなというのです。また「時々」というのは成熟期に入って何でもばりばりやれるとき、その時にも初めて経験することがある初心を忘れないようにしなさい。そして「老後初心忘るべからず」とは老後になって何もできなくなった自分その時の初心を大切にというのです。
キリストに出会い、自らの不完全さに気づき、打ちのめされて、悔い改め許された時の愛です。完全な者になったのではなく、前のものに向かって身を伸ばす者の姿勢です。(フィリピ3:14)
2014/3/16 初心忘るべからず