今週の説教要旨

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2014年3月9日

「恐れるな 」 

榎本 栄次 牧師

ヨハネ黙示録 1章17-20節

レント(受難節)に入りました。主の御受難とその愛を思いながら過ごしましょう。
今週からヨハネ黙示録を学んでいきたいと思います。私たちは何かを恐れ、怯えながら生きています。自然災害、肉体の衰え、病気、この世の権力、家族、職場、お金、景気など自分の人生を脅かすあれこれに恐れながら生きているのではないでしょうか。その様なとき「恐れるな」という御言葉が聞こえます。聖書は「主を畏れることは知恵の初め」(箴言2:7)と教えています。主を畏れることは、神以外のものを恐れないことです。「恐れるな」とは恐ろしいから言うのです。普通には恐ろしいこの世です。私たちの周りには怖ろしいものが沢山あります。
 ヨハネ黙示録の時代背景は紀元90年代のキリスト者の生活です。イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、特にキリストを信じる者たちには、皇帝ネロの厳しい迫害がありました。その跡を継いだドミティアン帝は更に徹底した迫害を加え、止むことを知りませんでした。信徒たちの生活は毎日怯えながら隠れて暮らさなければなりませんでした。しかも福音宣教に熱心でした。彼らの合い言葉は「イエスは主なり」(イクスース エス クリストー)であり、それを略して「イクスース(魚の意)」でした。しかしこの告白は死をも覚悟しなければなりません。このような厳しい状況の中で、この書簡が書かれたのです。黙示文学という表現がとられ、一般的には理解しにくいのですが、それだけに深刻な内容が込められています。
「イエスは主なり」は怖ろしい告白であり、この時代の信徒たちは特別勇気のある人たちのように思えます。しかしそうではな、。彼らは怯え弱い人たちでした。その彼らに「恐れるな」と呼びかけられたのです。そしてこの告白こそが彼らの拠り所であり、勇気の源でした。「恐れるな」という信仰の原点が「イエスは主なり」という告白にこあります。彼らは目に見えるこの世の権力には目を止めず、「見えないものに目を注いだ」(コリント二,4:18)のです。
 神は怯える彼らに語りかけて「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者」(17)と言われる。誰も抵抗できないほど大きな力が立ちはだかったとき、それは永遠に続く力のように思えます。そのような時、神に逃げ込み、神に依り頼んでいく目を注ぐとき、どんな力も一時的なものであり、神の前にはほんの一瞬でしかないことが示されるのです。
 私たちは自分を「初めの者」(アルファ)であり、自分こそ「最後の者」(オメガ)でなければならないように思ってしまうのです。だから恐れるのです。しかしそれはとんでもない思い違いであり、そんなことはあり得ないのです。私たちは途中の者であり、中途半端な存在です。しかし「イエスは主なり」の告白の前には、それを悲しまなくてもいい、それでいい世界が示されます。「私はアルファであり、オメガである」(8)と言われる方につながることです。
 自分の失敗で大きな責任を問われるとき、年老いて自由が利かなくなったとき、あるいは時代状況が恐ろしい状態になってきたとき「どうしましょう」と怯えます。その様なとき神は私たちの前に立ち「わたしはアルファであり、オメガである」と宣言されます。その神さまが共にいてくださる。たとえそのことで自分はどのようになったとしても神さまは引き継いでくださるという信仰に立たされるのです。そこから誠実に対応する勇気が与えられます。初代教会の人たちは、この信仰に立って、迫害の中で宣教を進めていったのです。
 どのような小さな事柄でも私たちの心を捉え脅かす原因になります。そのために武装し、やられる前にやり返さなければ不安でしようがない。優越感と劣等感の入り交じったストレスが全体を支配するのです。これは罪の支配する世界です。福音はそこから救い出し、神の平安に導いてくださいます。主の告白を掲げ「恐れるな」の信仰に立ち進みましょう。

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2014/3/9 恐れるな

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。