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2014年3月2日
「思い煩うな 」
榎本 栄次 牧師
フィリピの信徒への手紙 4章1-9節
祈りは最後に「キリストの名によって、アーメン」という言葉で締めくくりにします。それは「どんなことも主において真理です」と言うことです。納得のいかないことも、神様の名においてアーメン(真実)として受け入れることです。
フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが晩年獄中から書いた書簡です。フィリピの教会は、パウロによってヨーロッパの地で初めて伝道できた教会であり、親しい思いを込めて書かれた美しい手紙です。パウロはフィリピの教会の人たちのことを「私の喜びであり、冠である愛する人たち」と言っています。自分の教会の信徒を冠のよう思っていると言うことは、思われている人たちの心を明るくするでしょう。中には困った人だと思われるような人もいたかも知れません。その人たちも含めてパウロはそう言うのです。自分の家族のことをそのように思える人は幸せです。自分の職場の人についてはどうでしょうか。教師から宝物のように思われている生徒は幸せです。パウロは「神は見劣りのする部分を一層引き立たせて」(コリント一,12:24)と言っています。無理したり、誇張してそう言うのではなく、神様を通して現実を見る時に、そこにある光るものが見えてくるのです。それが、「イエスキリストの名によって」なのです。
パウロは若い頃、血気盛んなユダヤ教徒としてキリスト者を迫害していました。しかしダマスコ途上での復活のイエスに出会って180度転換させられて、キリストの伝道者となったのです。彼は多くの人を引きつける魅力とすばらしい賜物を持った人でしたが、同時に敵も多く、人々を躓かせたり、嫌われたりする人でもありました。波瀾万丈の伝道者の生涯の大半を過ごして、今や獄中で晩年を迎えていたパウロは、主において感謝と喜びの言葉で満たされています。人々に「主によってしっかりと立ちなさい」と言っています。自分の見える現実だけを見ていますと、思い煩いばかりが支配します。しかし主により頼んで、祈りの中で新しくされますと、信仰による現実が見えてくるのです。それが喜びなさいという理由なのです。信仰とはどんな時にも神様にあって勝利し、そこにしっかりと立つことです。自分の思い通りになることではなく、神の御心から自分を見るのです。その時に自分の周りにいる人たちが変わって見えてくる。困ったものだ、と思っていたらそれが宝物だったと言うことです。そこに真の平和があるのです。ある人はこの書簡を「白鳥の歌」と呼ぶ人がいます。白鳥は死に際に最も美しい声で鳴くからです。
この手紙が「喜びの書簡」といわれる所以は、「主において」なのです。エポディアとシンティケという二人の婦人のことが書かれています。彼女たちは何らかの理由でお互いの間でか、または二人そろって教会に対してか、不和になっていたらしい。このことについて「主において同じ思いを抱きなさい」(2)と勧めています。これは単なる仲直りとか妥協を呼びかけているのではなく、「主において」こそ解決ができると言うことなのでしょう。イエスの前に立ち、彼に従い、彼の恵みに預かる時、小さなことは消え失せてしまうのです。どちらか無理をして歩み寄るのではない、主がそのようにしてくださる、から歩み寄れる、自分を無にできる、それに思いを一つにするのです。この二人の婦人は、フィリピの教会のなくてはならない信徒でした。この不和は教会にとって大きな嵐にもなりかねませんでした。みな心を痛めており、それがパウロにも伝わったのでしょう。人間的には妥協できないところでも、主の十字架を見上げる時に新しい現実が見えてくるのです。主がそのようにしてくださいます。「全て真実なこと、全て気高いこと、全て正しいこと、全て清いこと、全て愛すべきこと、すべて名誉なことを、徳や称賛に値することがあれば、それを心にとめなさい」(8)とあります。パウロが晩年に獄中にあって、感謝の手紙を残していることはキリストの名によって起きているのです。「一粒の麦、地に落ちて死ななければただ一粒のままである。死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)ここに喜びがある。
種朽ちて 若芽を出す 麦畑
2014/3/2 思い煩うな