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2014年2月23日
「完全な者 」
榎本 栄次 牧師
フィリピの信徒への手紙 3章12-16節
主イエスは弟子たちに対して「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と言われました。このように人はそれぞれに完全なものに向かうものと言えます。人はまた不完全なものであり、塵のように空しい存在とも言われます。さてこの完全な者とはどういうことでしょうか。誰が完全な人になどなれるでしょう。
本日のテキストで、使徒パウロは「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(3:12)と言っています。私たちの信仰は、キリストの救いの先行性を基本とします。「捕らえられている」から「捕らえようとする」のです。その逆ではありません。立派な信仰があってキリストに繋がるのではなく、キリストの救いがあるからそれに応答する信仰が生まれるのです。人の努力やその人の持ち味で完成するものではなく、まず完全なるお方がいて、私たちを生かしてくださる、それに向かうのが信仰です。主が「完全な者になりなさい」と言われるのも、「天の父が完全であられる」という前提に基づいています。その主に捕らえられているが故に、捕らえようとして努めるのです。
そしてパウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・目標を目指してひたすら走ることです」(13,14)と言っています。もう到達したというのではない。主に向かって身を乗り出すこと、それが完全な姿であるというのです。スキーを滑る時、前に身を乗り出してスキーに体をまかせるのがコツです。谷側に落ちるのが怖くなって、山側に体重をかけると逆にスピードが出て方向性を失い暴走し倒れてしまいます。谷側に身を乗り出すと、ブレーキが利き、速度が制御できます。信仰も同じで主に身を委ねる時に自由を得られ、自分の制御が利きます。「完全な者は誰でも、このように考えるべきです」(15)と言う。ここで完全な者でないと言いつつ、完全な者はこうすべきというのには矛盾を感じます。しかし、ここに真理が隠されています。自分が完全になるのではない。完全な方を見上げて、その方の故に上のものを目指す、これが完全と言うことです。
ジョン・ウエスレーは完全主義者と言われました。彼の言う完全は、到達した静止状態ではなく、そのおかれたところで神の方に身を向けることでした。もし自分は完全無欠と考えるとしたら、全く不完全な者でしかなくなります。どんなに優れた人であったとしても、自らを神に向かわせ、そこにおける不完全さに泣きつつ上を目指すことが完全であるのです。
私たちはどんな人でも、神すなわち完全な方の方を向いて生きるようにつくられています。ギリシャ語で人のことをアンスローポス(上を向く者の意)と言います。寝たきりの何の意識もなくなっているような人でも、「今日はいい顔していますね」と心から声をかけられることによって何かが動くのに違いありません。「いずれにしろ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(16)とあります。キリストの許しは、全ての人に目標に向かって生きる喜びと課題をくださっているのです。
「完全な者」とは欠点のないことではありません。キリストにつながることにより、その人が新しい命に生かされることです。おかれた状況の中で、神につながり、そこで神を讃美できることです。それがどのような不完全なものであっても、キリストは罪を許して義としてくださる。それが完全な人です。
2014/2/23 完全な者