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2014年2月9日
「キリストを模範として 」
榎本 栄次 牧師
フィリピの信徒への手紙 2章1-11節
福音は「喜ばしき音ずれ」と言われる通り、私たちの信仰の根拠は救済の喜びにあります。無尽蔵にある宝の鉱脈を掘り当てた、あるいは宝その物に出会った時のような「喜び」が福音なのです。そしてキリスト者としての倫理や、こうでなければならないと言った義務も、深い悔い改めもそれに繋がるものである限り意味があり、そこから出てくるものでなければなりません。キリストに目を注いでいる時にそのことに気づかされ、知らされるのです。フィリピの手紙が「喜びの書簡」と言われる所以もそこにあります。
使徒パウロは、ローマの獄中からこの手紙を書いていますが、自分の身に起こったこと、すなわち囚われの身になったことが「かえって福音の前進に役立った」(1:12)のであり、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(1:20)と述べています。そしてフィリピの教会の人々に対して「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」(2:1,2)と勧めています。さてパウロはここで「幾らかでもあるなら」と皮肉で言っているのではありません。キリストの愛や憐れみがあるからなのです。主イエスは「からし種ほどの信仰があるなら」(マタイ17:20)と言われました。それは自分の中にあるのではなく、神からいただいた恵みです。
とは言え、「一つ思いになる」「利己心や虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考える」ことなどは、理想ではあるけれども私たちの中にはないものです。こう言われると下を向くしかないような気がします。そうしようとしてかえって分裂が大きくなったりするのです。しかしパウロは、ここでキリストのことを示します。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。・・それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6-8)。神ご自身が私のために奴隷の姿になってくださった。それだけではない、十字架にかかって私の罪のあがないとなってくださいました。そこに目を向けましょうと言うことです。「幾らかでもあるなら」というのはキリストの側のことです。
人類にとってこれほど大きな喜びはありません。大きな借金が返された。もう小さなことで悩むことはないよ、という福音です。私たちは「キリストを模範とせよ」と言われています。私たちにはそんなことはとてもできることではありません、としか答えようがないでしょう。しかしそれは自分の力でキリストのようになることを考えるからではないでしょうか。「模範とする」というのは、キリストの歩かれた後をついて行くことです。まずキリストが私たちのためにくださっている大きな愛の先行があるのです。私たちはそこについて行くのです。このキリストに目を注ぐ時、自分の周りは変わってくるのです。
キリストが私たちの中に入って生きてくださるのです。パウロの喜びは、自分のことではなく、自分の中にある神の恵みが、フィリピの人たちの中に生き生きと働くようになることです。その福音は今日私たちの中にも働いてくださるのです。
2014/2/9 キリストを模範として