今週の説教要旨

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2014年1月19日

「悔い改め」 

榎本栄次 牧師

ホセア書14章

「目からうろこが落ちる」という言葉は、使徒パウロの体験から来たものです。サウロ(後にパウロと呼ばれる)はキリスト者を迫害するためにダマスコに向かう途中で復活の主に出会い「サウル、サウルなぜわたしを迫害するのか」というキリスト会いました。今までイエスのことを信じる者らを死刑にすることに使命感をもっていたサウロでしたが、この時に打ち砕かれて、目が見えなくなりました。その後アナニヤに出会い、真理を知り、信仰に導かれました。アナニヤがパウロの頭に手を置いて祈ると、「たちまち目からうろこのようなものが落ちサウロは元どおり見えるようになった」(使徒9:18)のでした。ここでパウロの大転換が起きました。これを悔い改め(メタノイア・方向転換の意)と言います。キリスト教信仰で得られる「悔い改め」は、大きな恵みに裏付けられたものであって、決して道徳的戒律ではありません。これまでの悪癖を辞めるということよりも方向転換することです。自分やこの世の力こそ正義であり、そこに向けて生きてきた。それを、神の方に転換することを悔い改めと言います。「神様が共にいてくださる」という恵みのリアリティに立って考えることです。
 ホセア書は「愛の書簡」と言われます。夫ホセアを裏切り、他の男に走り、3人の子どもをつくります。しかし男たちに捨てられ、病気にかかり、誰からも省みられなくなった。その淫行の妻を娶れというのがホセアに対する神のメッセージでした。誰からも省みられず、見捨てられた妻を新妻のように愛し迎えるのです。この妻とホセアの関係は神とイスラエルとの関係でした。イスラエルの罪は決して見過ごしにされない。イスラエルは神の民となったがために罪を問われます。厳しい神の裁きである鉄拳が下されます。「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は打ち殺され、妊婦は引き裂かれる」というものです。そしてそのどん底で神は待っておられます。ごまかしたり、嘘で覆ったりはしません。それは愛ではないからです。そこで起きる深い悔い改めによって神との和解が始まります。
「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを迎える。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った」という神の側からの一方的な憐れみが与えられます。ここに神の無限の愛があり、それ故にここに悔い改めが可能になります。
 イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ あなたは咎につまずき 悪の中にいる。
 誓いの言葉を携え 主に立ち帰って言え。
 「すべての悪を取り去り 恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。 
 アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬には乗りません。
 自分の手が造ったものを 再びわたしたちの神とは呼びません。
 親を失った者は あなたにこそ憐れみを見いだします。」(2-4)
 悔い改め、神に帰れ・・ここに聖書が繰り返し繰り返し奨める信仰の根幹と言える悔い改めがあります。「アッシリアはわたしたちの救いではありません。たしたちはもはや軍馬には乗りません。自分の手で造ったものを神と呼びません」と言うことは大きな方向転換です。これは神様が共にいてくださる、という気づきから起きることです。自分中心に考えていたことを神中心に向きを変えるように転換するのです。それは、大きな勇気の要ることであり、大きな喜びへの招きです。もう奴隷ではない。静かにしていればいい。びくびくしなくてもいい。主が立ってくださいます。神に代わって誰かに頼らず、あるいは誰かを恐れながら機嫌をとってうまく有利に振る舞おうとしなくてもいい。武力に頼らず、この世の見える力を神としなくてもいい。自分を一生懸命磨いて立派な信仰者になろうとしなくてもいい。キリストの贖いがその恵みです。 

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。