今週の説教要旨

HOME  >  説教要旨  >  2014年1月12日

2014年1月12日

「自立と自律」 

榎本栄次 牧師

ホセア書 13章

一人前になることを自立(independence)と言います。明日は「成人の日」です。若者は20才になって一人立ちするのですが、なお一人前になるには多くのハードルを越えなければなrないことでしょう。人として自分を律すること、すなわち自律(autonomy)できるようになって初めて自立できたことになります。それに加えて武田清子氏(元国際基督教大学)は神律(theonomy)と言いました。それは自らを律する神の存在を抜きにしては真の自律も自立もないということです。自立した人は、自分自身とうまく付き合うこと、また他の人とも上手につきあえるようになるでしょう。自分の主張ばかりに固執することは、自立ではなくわがままでありとても不自由なことです。それはブレーキの利かない自動車や、信号機のない交差点のようなものです。自分を律してこそ真の自由があると言えるでしょう。また大切なことであれば、どんなに反対されても頑固に主張できる力も必要です。
 さて私たちは神の国を望みます。主イエスは神の国のことを王様の宴席にたとえました。それは世界で一番すばらしいパーティであり、そこに招かれることはだれよりも名誉なことでした。みなそこに行くことを希望していました。ところが実際にはそうでないようです。主イエスのはなしによれば、いよいよ宴会が始まるときになり準備が整ったので迎えの人が行きました。その時になると招かれた人は皆一様に断り始めると言うのです。(マタイ22:1-)どうしてでしょうか。それは自分の主権を神に渡すことだからです。神の国ということは自分の国が滅びることでもあります。私たちは自分で立つこと、自分さえしっかりしていれば大丈夫と思っていますが、果たしてそうでしょうか。自分はその様にしっかりとしているでしょうか。健康な時は何でも可能なように思いますが、いったん病気になどなると自立できていない自分に気づきます。その時、自分を治める者はだれでしょうか。
 ホセアは人の救われるのには荒れ野に出ることが必要だと言います。「荒れ野で、渇ききった地で、私はあなたを顧みた」(5)とあるように、イスラエルは渇ききった地で神と出会ったのでした。モーセを初めイスラエルの人たちはエジプトで奴隷の生活を送っていたのですが、神に呼び出されて出エジプトをしました。楽しい生活が始まるかと思ったら、大変な日々が待っていたのです。モーセは嫌々無理矢理に引き出されたのでした。神の言葉を聞かなければミデアンの地でチッポラと静かで幸せな暮らしができたことでしょう。神の選びとか、神の召命というのはすばらしい門出ではないようです。「豹のように道で彼らをねらう。子を奪われた熊のように彼らを襲」(7,8)って来るのです。その様にして追い出されるのが神の国です。
 神はその厳しさ、その泣く毎日の生活の具体的なところ、すなわち荒れ野や渇いた地で私たちに出会われるのです。人は豊かになると、神の恵みを忘れ、自分の力や、この世の力に目を奪われます。そして自立したと思うのですが、その時、実は自分を失っているのです。
 神は再びイスラエルを回復するために「すべての富、すべての宝は奪い去られる」(15)と言われます。それが神の時の始まりです。信仰に入るのに人の精神力や、意志の強さが要求されるのであれば、だれが耐えられるでしょうか。しかしあらゆるものを失った時にもなお、否、その時にこそ今まで見えていなかったことが見えてくる。気づかなかった神の支えを知らされるのです。今までのものが無くなったのではなく、それらすべては神さまから与えられていたのだということに気づかされるのです。その時、神の支配、神の国が私の中に起きる。それを神律と言うのです。私たちは荒れ野を恐れます。しかし神がそこに共にいてくださるが故に勝ち得て余りがあるのです。その時に神律を得、真に自立と自律が始まるのです。

      

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。