2013年12月22日
「神の愛」
榎本栄次 牧師
ホセア書 11章
クリスマスおめでとうございます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。キリストがこの世に来てくださったことにより、罪深い私たちがその信仰により義とされました。ヨハネは「神は愛である」(ヨハネの手紙一、1:16)と言いました。これほど慰めに満ちた言葉はありません。これは聖書全体が私たちに対して語るメッセージであり、正義も律法も真理もこの言葉に従います。何と美しい言葉でしょうか。この美しい言葉に触れて生きることこそ祝福された人生と言えます。日常経験する事々が、ただ意味もなく動いているように見えますが、そこにははっきりとした目的と方向があります。それは神の愛に向かっており、その故に全てが意味ある事々なのです。
ホセアは愛の書簡と言われ、夫婦の愛を示し、ここでは親子の愛にたとえてイスラエルに対する神の愛を知らせています。神はイスラエルをよちよち歩きの時から育てた。エジプトの奴隷であったときに導き出されたのでした。神は、イスラエルのことを、私が愛し、私が呼び出し、私が歩くことを教え、私がいやしたと言います。にもかかわらず「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」(2)のでした。そのようなイスラエルに対して厳しい裁きを下される。ホセアはイスラエルの背信に対して厳しい裁きを預言し、それから逃れることができない罪の重さを指摘します。ときには敵のようであり襲いかかる獅子のようでした。そしてそこにこそ深い神の愛が秘められていることを伝えます。
「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」(8) 。ホセアの言う「アドマ」とか「ツェボイム」というのは、呪われた町ソドムとゴモラと共に罪の故に滅ぼされた町です。神はイスラエルに激しい怒りをぶつけながら、その本心はイスラエルを滅ぼすことではなく、彼の悔い改めを待ち、彼と和解することを願い、許し、愛し迎えようと言う思いが胸の内に燃え立っているのです。
父母から離れて自立しようとする子どもの危険。その危険は親にとっては更に大きな危険です。再三再四イスラエルを立ち上がらせた主でした。親であることの苦悩ですが、子どもは親の思いを知らず、違った方に進んで行こうとします。期待はずれです。そのことで神はイスラエルを愛するが故に罰せずにはおきません。そしてまたそれを後悔もするのでした。「この事はあなたよりももっと私を傷つけている」。親の痛みと愛が隠されています。8節の言葉が「神の愛」を示すのです。「聖なる者」(9)というとき、全く他の者。と同時に、「お前たちのうちにある」者であり、「身をかがめる」主なのです。(4)
キリストは、僕の形をとってこの世に来られた。それは罪人を裁くためではなく、救うためであり、自ら裁かれる者として来られたのです。罪人を救うために貧しい姿で生まれ、十字架にかかるまでその姿をとられたのでした。それによって私たちは救われたのです。
放蕩息子のたとえを想起します。(ルカ15:11以下)。兄は真面目に働いていたのに対して、弟は働くのが厭で財産の半分を貰い、都会に出て放蕩の日々を過ごしました。やがて身を持ち崩し、豚の餌を食べたいと思うほどになったとき、「本心に立ち返り、・・父の所に行って雇い人の一人にして貰おう」と決心したのでした。色々と言い訳を考えました。しかしそれは不要でした。父親は息子を見つけると、走って抱きかかえ、大歓迎しました。しかし真面目に働いてきた兄はこの事を面白く思えませんでした。兄の方よりも弟の方を評価している父のことが理解できません。神はここで、正しさより罪人の側、裁かれる側に立たれました。そうして私たちを救ってくれたのです。
クリスマスにあたり、私たちのところに来てくださった「神の愛」に感謝し、共に主を讃美し、主を礼拝しましょう。