今週の説教要旨

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2013年12月8日

「喜ぶな」 

榎本栄次 牧師

ホセア書 9章

 信仰はある意味で戦いです。罪との戦いです。そしてその戦いに勝利しなければなりません。普通にしていると私たちはこの罪の奴隷になっています。その戦いはとても辛いことです。しかしそれなしに信仰の養いはあり得ません。救い主はその戦いを勝利へと導いてくださいます。敵と思われるような人も神から送られた天使であることがあります。自分のことを批判してくれる人がいる間は、希望があると思ったらいい。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子をむち打たれる」(ヘブル12:6)とあります。批判されなくなったら気をつけましょう。主イエスは、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)と言われました。その時に主に向かい、悔い改めることができるからです。主にあって悲しむことを恐れることはありません。悲しむことに弱い人が多い。「喜んでいるときよりも、悲しんでいる時の方が神様に近いような気がする」(星野富弘)

 預言者ホセアは人々が秋の収穫の祭りで喜び祝おうとしているときに、「喜ぶな」と叫びました。その国が犯している大きな罪の故です。このようなことは、一般的にはその場をわきまえない、はなはだ非常識な発言ととられます。祭りを喜んでいた大部分の人たちはこの突然現れた奇妙な人物を「預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う」(9)と非難しました。イスラエルがその時の収穫に酔って、喜び祝っていたので場違いな狂人と思ったのです。物質を神とするカナンの地の神バアルを拝んでいたのです。成功したこと、いま手の中にもっていること、これを無くしたらどうしましょうと思い悩み、バアルの神に心を奪われたイスラエルでした。

 ホセアは紀元前8世紀中頃から後半にかけて、北王国イスラエルで活動した預言者です。イスラエル王国は紀元前721年にアッシリア軍によって滅ぼされますが、ホセアはその少し前まで活躍した預言者です。エヒウ王朝のヤラベアムⅡ世(b.c.787-746)の支配の下、イスラエルが最後の繁栄をした時代です。イスラエルの人々はその繁栄を喜び、宗教を儀式化し、道徳は乱れ、正義が踏みにじられていました。それでも一時的な繁栄が神となり、正義は退けられました。富が彼らを傲慢にし、真理を見えなくしました。この繁栄は大国ペリシテによるものである、あるいはエジプトに頼るべきだと考えたのでした。

 イスラエルの神への信仰は曲げられ、罪に罪を重ねても神を畏れず、バアルを祝っていたのでした。その繁栄はとても華やかでしたが、偽りが満ちていました。ホセアは「喜び祝うな」と叫んだのです。神の厳しい裁きの時が来たからです。ホセアは主に祝福された祭り、真実の礼拝、本当の喜びを望んだのでした。偽りの礼拝は主は喜ばれず、神への姦淫であり、自分たちを滅ぼすことになる。このホセアのイスラエルに対する叱責は、イスラエルの裁きの預言でありつつ、悔い改めへの招きでした。しかし、イスラエルの人々はこの批判を受け入れることができずに、預言者たちの言葉を自虐的だと言い、自分たちを滅ぼす者だと誤解したのです。そして人々は預言者を退け、ものを言わせず、秘密にし、本当のことを言う預言者を殺そうとまではかります。しかしイスラエルを滅ぼす者はホセアの叱責ではなく、悔い改めようとしない彼ら自身だったのです。そしてホセアこそイスラエルに真の喜びをもたらす愛と希望の声であったのです。偽りの喜びを退け、主による真の喜びを示したのでした。ホセアにとって人々の賞賛や評価を目的にはせず、今警告を発し、イスラエルの神の前に悔い改めて共に和解を実現することこそ願ったのです。それは人間の力をはるかに越えた大きな真理の力でした。その人柄や正義感ではありません。神の愛がホセアを強く捉えていたのです。「愚か者」「霊の人は狂人」と言われながらもイスラエルを愛したのは、イスラエルを放さない真の愛に捉えられていたからです。

      
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2013/12/8 喜ぶな

    

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