2013年11月24日
「救いはどこに」
榎本栄次 牧師
ホセア書 7章
主イエスは「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われ、また「わたしの軛(くびき)を負いなさい」(マタイ11:28-29)とも言われます。「休ませる」ことと「わたしの軛を負いなさい」ということは矛盾するように思われます。軛というのは牛の肩に掛けて荷を引く木の枠です。主はそれを二頭だてで一対にして一緒に担おうというのです。キリスト者になると言うことは、ある意味で束縛されることであり、重荷を担わさせられることでもあります。自分の重荷に苦労している人に、主はさらに「わたしの軛を負いなさい」と言われます。主に束縛され重荷を担うことによって楽になる。ここに福音の秘密があるのです。
ホセア書は、愛の書簡と言われます。どんなに不正を働く妻であっても繰り返し許し、受け入れる愛が語られています。それはまたイスラエルと神との関係でした。神は、罪深いイスラエルを何とか救おうとするのですが、その心を人々は知ろうとしません。「わたしは民を回復させようとし、イスラエルをいやそうとしても、かえって、エフライムの不義、サマリヤの悪が現れる。実に彼らは偽りをたくらむ。」(1)その反省を期待しますが、返って逆の結果になってしまうのでした。「彼らは悪事によって王を、欺きによって高官たちを喜ばせる」(3)「高官たちはぶどう酒の熱で無力になり、王は陰謀を働く者たちと手を結び、燃えさかるかまどのようなたくらみに心を近づける」のでした。(5,6)賄賂や不正で自分を喜ばせ、うまく世渡りをする要領のいい人になってしまったのでした。形はあっても味の無くなった塩と同じです。その結果、「エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返されずに焼かれた菓子となった」(8)。国に不正と争いが絶えず、他の国の食い物になってしまい、「他国の人々が彼の力を食い尽くしても、彼は気づかない。白髪が多くなっても、彼は気づかない」(9)のでした。その原因は他の人にあるのではなく、「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢」(10)です。それでも彼らは悔い改めて主に帰ろうとはせず、「エジプトも助けを求め、あるいはアッシリアに頼っていく」(11)のでした。ここで罪の軛を負わされた奴隷になっていました。金やお酒、楽にし自分を楽しませてくれるはずが、その奴隷になってしまったのです。こうして王も高官たちも堕落しても気づかず、主を離れ、ついに「エジプトの地で、物笑いの種になる」(16)結果となりました。
それでも神様はイスラエルを待ち、ぼろぼろになったイスラエルに「わたしの軛を負いなさい」と呼びかけられるのです。「放っておいてくれ」と言っても離しません。「彼らが出て行こうとするとき、わたしはその上に網を張り、網にかかった音を聞くと空の鳥のように、引き落として捕らえる」(12)のです。敵よりも厳しく責められる。実はそれがわたしたちを救ってくれ、楽にしてくれるのです。悔い改めてもすぐに元に戻る。見えるものに頼り、できたら誤魔化して楽にいきたいと思う。そのような私ですが、キリストに捕まってしまった。神様がどこまでもついてくる。うるさいなあと思っても自分の好きなところに走るのですが、捕らえられる。
このように問い、責められるイスラエルは実は祝福の民なのです。もし、私たちが神と何の関係もなければ、問われることも責められることもないでしょう。そこは罪の奴隷と死があるだけです。そんな私に「重荷を負っている者はわたしのところに来なさい」と声をかけてくださる主が来てくださった。そこに救いが待っているのです。罪の奴隷から解放されて、主の奴隷にされるところに真の自由があるのです。「真理の囚人こそ、真の自由人たれ」(新島襄)