2013年10月20日
「愛なる神」
榎本栄次 牧師
ホセア書 3章
ヨハネは「神は愛なり」(ヨハネ第一4:7)と説き、またパウロは「愛がなければ、私に何の利益もない」(コリント一、13:3)と奨めました。主イエスも神への愛と、隣人への愛を説き、「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」(マタイ22:34以下)と言っています。そして聖書全体はこの「愛なる神」に貫かれているのです。
予言者ホセアは北イスラエル王国で、ヤラベアム2世(b.c.789-746年)の末期から、王国滅亡の直前まで20数年間に渡り預言活動をしたと言われています。彼は北イスラエルから出た唯一の予言者であり、父の名はベエリと言い、(1:1)ゴメルを妻としました。2男1女の子どもがいるのですが、子どもたちに付けた名前が妻の不貞を疑っていたことを示しています。この不幸な結婚が彼の預言活動と深い関わりを持っています。
「主は再び、夫に愛されていながら姦淫をする女を愛せよ」(1)ホセアに命じました。ここで「主は再び」とあるように彼女の姦淫は一度や二度ではなく、何回も罪を重ねていたようです。その揚句、男に捨てられ、身は老い廃れ、奴隷に売り渡された身分になっていました。その時、神はこの哀れな女を買い取って「愛せよ」と言われるのです。そこでホセアは、「銀15シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って、その女を買い取った」(2)のです。
さてここでこの姦淫の女の姿は、そのままイスラエルの神に対する不信実の実体でした。金のため正義を捨て、権力におもねり、不正と流血を蔓延らせていました。「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫び(ツェアカ)」(イザヤ5:7)という状態でした。金を神とし、目先の繁栄を頼みとして大国に良心を売り渡していたのです。ホセアはその国の不正と告発しながら、それを誰よりも愛おしく愛する神の言葉を告げたのです。それはまた、私たちの罪を主イエス・キリストの十字架において許された神の姿でもあります。ホセアのことを何と情けない男だとののしりましょうか。それはそのまま自分に対する裁きとなるでしょう。ホセアは裏切りの妻を新妻のように受け入れました。それは私たちに対する愛なる神の御姿です。もし私たちが許さねばならない側にいたとするなら、だれがこのようなことに耐えられるでしょうか。神の愛とは一体何でしょうか。「そのような偽善は結構です」と言いましょうか。正義を通し、不義を断罪しましょうか。そこにこそ神の国があると言えるのではないでしょうか。不義を許さない正義の御旗を掲げたいものです。もし私が正義の人であるならば。
しかし私たちが逆に、許されなければならない側にいるとしたらどうでしょうか。このホセアの愛はなんと深いありがたい心でしょうか。そこにただひれ伏してその愛に感謝するばかりでしょう。
私たちはどちらの側に自分を置いて聖書を読むのでしょうか。主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)と言われます。神様が、私たちに何らかの価値を見いだされて、選ばれたのではない。ただ神様の側からの一方的な憐れみによるものです。神はイスラエルの民を「宝の民」と呼んでいますが、それは「あなたたちが他の民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他の民よりも貧弱であった」(申命記7:7)からなのでした。ただ神の憐れみによるものです。そうだとすれば、私たちは後者に身を置くものです。ホセアはこの神の愛の故に、淫行の妻ゴメルを徹底して責めながら、同時に底抜けに何のこだわりもなく、受け入れるのです。
イザヤは「 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」(40:8)と言います。ここで言う「主の言葉」とはイエス・キリストに示された神の愛です。どのような混沌が支配していようとも主の霊がそれを覆っていたと言う創世記1章の言葉がそれを示しています。このように私たちの信ずる神は、愛をその本質としています。キリスト教倫理の基本は神の愛にあります。その愛は、キリストによって本来許されるはずのない者が許され神の子として受け入れられたことです。過去の全てを許され、新しい命に生かされた喜びとそこから来るキリスト者の生活が、私たちの倫理の規範となるのです。