今週の説教要旨

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2013年9月1日

「混沌を支配する神」

榎本栄次 牧師

ヨブ記 41章 1-26節

榎本栄次 牧師

 創世記には「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光はあった。」(創世記1:1-3)とあります。すなわち混沌が地を覆っていた。

 私たちは信仰と言いつつ、その神を自分の支配下に修めようとします。すなわち自分の納得のいく神を求めるのです。自分の納得のいく限りにおいて、それに従い忠実に振る舞おうとするけれども、ひとたび自分の意に添わなくなると、そこから離れてしまうのです。しかしまことの信仰はそこから始まります。自分ではどうにもならない混沌に出会う時、大きなとまどいを受けますが、それはずっと以前からその中におかれていて、自分との関わりがなかっただけです。それを人間がどれほど気張って克服しようとしてもできるものではありません。

 ヨブが自分にふりかかった苦難について、神に問い、訴えてきた問題は、「なぜ自分だけがこんな苦しい経験をしなければならないのでしょう」ということでした。それを納得させてくれる人がいません。ヨブの友人たちは既成宗教の教義から説明しようとしますが、それはかえって混沌を増す結果となりました。なお執拗に問い続けるヨブのことを、神学者たちは神への反逆として断罪するのでした。ヨブの孤独はもはや神ご自身によってしか慰められません。

 そのようなヨブに対して、神は「嵐の中から」答えられました。それは宇宙と自然界についての神の超越性を説くものでした。その内容はヨブもヨブの友人たちも既によく承知していることでした。しかしその知識はほんの一部分であり、解釈にすぎず、混沌に包まれたままでした。神の知恵は人間の合理的な思考や知恵を遙かに超えたものであり、神の知恵と計画の中に全てが包まれたものです。「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の上を動いていた」とあるように、神は混沌をも管理下におかれ、支配されているという宣告でした。

 41章は、40章15節からの続きの文章です。「見よ、ヘベモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った」(40:15)「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕らえて、屈服させることができるか」(40:25)とヨブに問いかけます。またこれを相手にして「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。見ただけでも打ちのめされるほどなのだから」(41:1)と諭しています。ベヘモット(かば)とレビヤタン(わに)は原始の怪獣のような動物であり、人生の混沌を象徴する生き物です。まさにヨブの人生そのものでした。

 「口からは火炎が噴き出し/火の粉が飛び散る。 煮えたぎる鍋の勢いで/鼻からは煙が吹き出る。 喉は燃える炭火/口からは炎が吹き出る。首には猛威が宿り/顔には威嚇がみなぎっている。 筋肉は幾重にも重なり合い/しっかり彼を包んでびくともしない。・・・」(11-15)

 なんと恐ろしい生き物でしょう。このような状態が混沌です。これを誰も操ることができないし、支配できません。しかし神はこれを造った方であり、彼らを「小鳥のようにもてあそぶ」(40:29)お方です。この混沌を支配される神が、今ヨブに語りかけています。レビヤタンの強さを神はよく知っておられます。それを支配する神がおられたと言うことを知ることは、「真に恐れるものは誰か」を知るのです。健康な時はどんなことでもできるように思うし、立派なことも言えます。「どんなことになっても神を呪うようなことはいたしません」「年老いて何もできなくなっても、かわいい愛される老人になります」「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言えるかも知れません。しかし「彼の上に手を置いてみよ。戦うなどとは二度と言わぬがよい」(40:32)とあるように、とても惨めな自分に出会うことでしょう。

 信仰とは、混沌の中でそれに勝つ神のような強い自分になることではなく、混沌を支配される神に頼り、その方を出会うことです。そこで主イエスの愛がわたしたちを守り支配してくれます。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎ」(コリント二4:18)ます。

      

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
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