2013年8月4日
「思い煩うな」
榎本栄次 牧師
ヨブ記 39章 1-30節
信仰には単純さが求められます。そこから深く複雑な真理へと導かれるのです。主イエスは、「あすのことを思い煩うな」と言われました。(口語訳マタイ6:34)その根拠は、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(同32)からです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と言う神の深い愛の故に「思い煩うな」と言われるのです。
「あなたは鬱になってへこむというようなことはないのですか」と聞かれることがありました。今あなたの教会は大変な状態なのではないですか、それなのに、どうしてそんなに元気なのですか。どうしてそんなに明るくしていられるのという疑問があるのだと思います。なんだかノー天気と言われているような気もしますが、実は私は人一倍鬱になるたちです。舞に悩み苦しんでいます。でもそれが抜けているのです。その秘訣は礼拝です。日曜日ごとの礼拝でいやされ解決されるのです。ここで全部神様にゆだねきることができるからです。後は悩みが消えるのです。だから私にとって礼拝は、皆様のためではなく自分に取ってなくてはならない時なのです。もし私たちにこの逃れの場がなければどうしていたでしょうか。ここは恵みの座です。
ヨブ記は38章から突如として神の側からの語りかけが始まります。38章では、自分の身に起きた不条理について、神を告発し、問うてきたヨブに対して、神ご自身が語りかけられます。宇宙の壮大な秩序と神の知恵を示して、「無知な言葉をもって神の計りごとを暗くする」(38:2)者として、ヨブを叱り、逆に「これは何者か」と問うのです。嵐の中からヨブに語りかけた主の言葉は、新しい命の始まりでした。それに続いて39章では、地に住む生きものを取り上げて、計り知ることのできない神の知恵と、それに比べてヨブのいかに小さいかを明らかにし、ヨブを厳しく裁きます。神を問うてきた者が、今や神に問われることになりました。
「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか」(39:1)野ろば、野牛、駝鳥、馬、鷹や鷲についてその生態を知っているかと問います。この世界の隅々まで神の支配があり、その知恵で動いている。あなたはその知恵を知っているのかと問われます。神のヨブに対する厳しい問いかけは、裁きでありつつ、同時にヨブの問いへの答えであり、救いへの招きです。「呼んでください。お答えします。私に語らせてください。返事をしてください」(13:22)と言うヨブへの神の語りかけです。私たちはどのようなことでも人類はみな知っているように思いますが、それは神の創造のほんの一部分にすぎません。
主イエスは、野の花、空の鳥、野の獣を守っておられる神の愛を示しながら、「神の国と神の義を求めなさい」と勧めてくださいました。自分の目から神を計るのではなく、神の目で自分を計る時、大きな神の愛を知ることができます。どのような困難や、魔物もすべて神の御心のうちにおかれているのです。だから思い煩わなくてもいいのです。
ヨブにとって、義とされると言うことは、自分に過ちがないと言うことの証明ではありませんでした。神の国と神の義を求めること、それに加えられることでした。神の全能性への信仰は、「あすのことを思い煩うな」という御言葉に立つことです。それは何もしないことではありません。神の御支配を信じそれに任せて、今しなければならないこと、今できることをしっかりとやることです。「前後際断」という言葉があります。これは仏教用語ですが、悩みが多くて一寸先が暗闇のような時、そうであれはある程、過去(前際)のことや将来(後際)が一瞬ごとに真実なものとして変化しながらも普段に連続していることを表しています。これはあれこれと思い悩むのではなく、今すべきこと御心(今)に集中することです。
波多野清一は「時と永遠」という本で、永遠性というのは時間ではなくその一瞬にある真理が永遠であり、その連続を歴史と言っています。主にゆだねる信仰です。私たちの信仰は、深い哲学でも悟りの世界でもなく、神の御支配に身をゆだねるという単純なことです。