今週の説教要旨

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2013年6月16日


 「愛は哀しきもの」    榎本栄次   
                         暗誦 内藤弘子姉

愛は優しい時も厳しい時もある
  愛は 傷ついた葦を折らず
  ほの暗い灯心を消すことがない
愛はまた
  命のために罪を犯し 片腕を切り落とし
  片方の目をくり抜きもする
優しいという字には
  憂いがある
柔和という言葉は
  たたき壊されるという意味だそうだ
  その人は地を受け継ぐという
苦しいという字は
   若いという字に似ている
呪いという字も
  よく見ると、祝いという字に似ている。
敵という字には、
  メッセージ(文)が隠されている。
  そのメッセージを自分の道に取り入れると
  適(かなう)と言う字になる
辛いという字にもう一本足すと
  幸いという字になる
有難いと言う字を見ると
  難しいことが有ると書かれている
そうだ
いま私が悩んでいることは
  神さまから送られてきた有り難いメッセージなのだ
だれも恨んだりしなくてもいい
  どんなこともつぶやいたりしなくてもいい
ここに イエス様が共にいてくださるのだから
この世の中に無駄なものは何もない
  そこで神様との出会える場や時があるのだ
  主が共にいてくださる
  どんな難しいことが有っても
  それが有り難いことになる
  そこに優しさが生まれるだろう
愛は哀しきもの



「生ける神」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記 35章 1-16節

       

 神様は私たちの日常生活に深く関わりながらご自分を示される方です。神への信仰は自明のものでも、固定したものでもありません。荒波に飲み込まれそうな「舟の中の信仰」(マルコ4:35以下)です。信仰は神によって与えられる豊かな恵みと共に、厳しい試練にあわされる必要もあります。自分本位に後生大事に抱えていた信仰が、危機の中で振り回されて、精錬され、生ける神の御手に触れ導かれます。神さまは木や石で造られたものではなく、又は文章に書かれた教義でもありません。私たちの神さまは、生きた神さまです。私たちの生活に深く関わってくださるお方です。

 神を信じるが故に苦しみ、神の前に忠実であろうとするがために起きる矛盾がヨブを捉えます。神の前に完全なほど正しい人であったヨブが、突然家族を亡くし、財産を奪われ、自らも目を覆うような病に冒されたのです。ヨブは神を畏れる人であるが故に、なぜそのようなことが起きるのかと苦しみます。自分の体験している現実を神への信仰とつなげて問うのです。

 エリフはそんなヨブに対して、神の超越性、隔絶性を説き聞かせます。神の絶対性の前に、自分の正しさや間違いは問題にならない。それは全く関係のない事柄であるとします。神は天にいまして、人は地上に住む。神は永遠より永遠にいまして、人の命は瞬時に過ぎない。その違いは無限であり、小さな人間の了見で永遠なる神の世界の善し悪しを計ったり、云々すべきではない。人の世界から神の世界を推し量るのではなく、神の場から自分のことを尋ねることに信仰の姿勢がある。神の前に対等に立って、自分に罪がないなどと傲慢なことを言うヨブは、最も大きな罪を犯しているのだから、神の裁きを待つしかない。お前の祈りなど聞かれるはずがない。以上エリフの主張は、信仰の根本的(ファンダメンタル)な姿勢と言えるでしょう。考えてみると、人間の存在など、大宇宙、歴史の永遠性に比べるとごく小さな存在であり、一羽の雀、一筋の髪の毛に等しいでしょう。しかし神はそれらを御心に留められるお方です。(マタイ10:31)

 神は死んだ神ではなく、生きた神であらます。生きているということは、私たちの日常に関わるということです。ある時サドカイ派の人がイエスに質問しました。5人の男と結婚した女性は復活の時、誰の嫁さんになるのかと。その時イエスは彼に答えて(マタイ22:32)「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言われました。聖書の神は教科書のように答えの決まっている固定化された方ではありません。人の罪や破れを指摘して機械的に裁く神ではなく、創造者にして父なる神は罪人と共に泣き、破れを繕い、弱い人と共に苦しみながら御心を進められるお方です。信仰は教義ではありません。エリフは人間の小ささを神の絶対性と比較して、何をしても意味がなく、自分が正しかろうと悪かろうと関係ない。ただ神の裁きを待てばいい。お前が苦しんでいるのはお前の罪の故でしかない、それを神のせいにするなどとんでもない。お前が祈ったからと言って聞かれるものではないと言うのです。ここで私たちは神の全能性を誤解してはなりません。

 「超越的、隔絶的な神は絶対なる神であるが、同時にインマヌエル(神共にいます)の神である」(K・バルト)。神は人間の罪を創造者としてご自身の身に引き受け、被造世界のために悩み、繕い、救い上げてくださるお方です。ここに生ける神としての愛があるのです。

 不完全な私たちを神さまは「そのままでいいよ」と引き受けてくださる。せっかちにヒステリックになるのを止めて、神さまのなさることを見せてくださるのです。聖書の神は私たちがどうでもよいというのではなく、その弱さを痛み、罪を悔い、破れを繕い共に生きて働かれる神さまです。だからこんな小さな者でも、キリストの故に、諦めずに希望を持って在ることができるのです。

 人づくりは教会の大事な使命です。その命はゆっくりはぐくまれます。家庭の中で、会社で、学校で、教会の中で互いを育む関係を訓練しなければなりません。それは荒波にもまれるような試練もあります。そこに主が共にいてくださることを知るのが信仰です。「小さなことに気をつけなさい」と言われる神は、今日私と共に生きて働いておられます。生ける神を待ちましょう。

             

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。