今週の説教要旨

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2013年6月9日

「神のご支配」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記 34章 1-37節

 「神の国」というのは、「神の支配されるところ」という意味があります。それは自分の思い通りになるところではなく、むしろ自分が死ぬところに移されるのです。自己の拡張やその延長線上に神の国があるというのは、人間の作った「神の国」であり、聖書の示すものではありません。それは、肉体的なこと物質的なことについてだけではなく、精神的な正義や信仰についても同じことが言えます。自分の義しさに立ち、自己完結しようとしても、それで神の国に入ることはできないのです。

 若者エリフは、ヨブが自分の義しさに固執して譲らないことを、過去のヨブの言葉を引用しながら厳しく攻撃しています。そのようなヨブの言葉を神に対する反逆ととり、その罪を告発するのです。確かに、ヨブは自分が正しいのに神から不当に扱われていると神に問い、訴えています(9:22,21:7-13,30:20-23)。しかし、エリフはヨブに対する思い込みを強くするあまり、彼の言っていないことまでも、彼の言葉として攻撃するのです。「神に喜ばれようとしても何の益もない」(9)これは明らかにエリフの誤解です。ヨブは決してそのようなことは言っていません。それは「悪人」たちの結論であって、ヨブははっきりとそれを否定しています(21:14-16)。

 しかし、ヨブはここでエリフに反論せず、沈黙します。「人は神と親しんで何の益があるか」(口語訳)という言葉は私たちの信仰の闘いではないでしょうか。ヨブはそんなことは言っていませんが、それは自分の内部の声であり信仰はその闘いの日々です。神に聞き従おうとするとき、自分の内側からささやきかけてくる誘惑です。苦しみもだえている時、「ひれ伏せ、ひれ伏せ。そうしたらこの世のあらゆる栄華をお前にやるから」とサタンはささやきかけてくるのです。その時、「サタンよ、退け。主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ、と書いてある」(マタイ4:10)という信仰の勝利へと乗り越えていく闘いが信仰生活です。そこにこそ神のご支配があるのです。

 「カラスが枝にとまるのを、一体どのような木が払いのけられるというのだろうか」とルターは言っています。覚えのないことを攻撃され、誘惑されるのは避けられません。神さまに追い払ってもらうしかないのです。ヨブはそれに反論せず沈黙しますが、その沈黙はむしろわれわれには雄弁です。神さまが直接語りかけ、悪魔をも支配してくださることに気づかせられます。

 ヨブは「悪」なのでしょうか。信仰する者はこの同じ闘いを日々闘っており、ヨブは「義」であると言うでしょう。しかし本当の問題はヨブの「義」にあるのではないのです。本当の問題は「神の義」にこそあるのです。それは35章で明らかにされます。

 どんなに苦しくても「神さまは恵みです。アーメン」と告白できていると、周りの人はとても平和な気分にさせられます。ですからつい私たちは苦しんでいる人にそれを要求してしまいます。それが神の正義を打ち立てることだと確信し、強い使命感を持って押しつけるのです。しかし、それは強くて健康な人間の作った「神の国」です。神の御支配はそのような人間の支配を退けられます。

 主イエスが、間もなく経験する十字架の苦難を弟子たちに知らせました。それを聞いた弟子のペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言うと、主はふり向いてペトロに言われました「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られたのでした。(マタイ16:21以下)

 私たちは信仰告白において「聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白します。これは私たちが間違いを犯さないと言うことではありません。書かれた聖書も、「神語」というものはなく、ヘブル語であったり、ギリシャがであったり、日本語に訳されたりして誰かの手によるものです。ですからそこには誤訳や間違いもあります。「にもかかわらず」神はその聖書を通して私たちに語りかけてくださり、聖典とされるのです。私たちは沈黙し、待つのです。そこにこそ神の御支配である「神の国」が実現するのです。

      

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。