2013年4月21日
「主を待ち望め」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 29章 1-25節
沈黙は雄弁であり、待つことが最も有効な行動であることがあります。人は、苦しみの中に置かれた時「昔はよかった」と回顧したくなるものです。かつての幸せを思い出すその裏には、現在の悲しみの深さが隠されています。
ヨブは過去の良き思い出を振り返ります。今、置かれている辛苦に比べて、過去の日々はなんと輝かしいことだったことだろう。かつてのヨブは「わたしのことを聞いた耳は皆、祝福し、わたしを見た目は皆、賞賛してくれた」(11)「死にゆく人さえわたしを祝福し、やもめの心もわたしは生き返らせた。わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった」(13,14)のでした。「あのころ、神はわたしの頭上に、灯を輝かせ、その光に導かれて、わたしは暗黒の中を歩いた。神との親しい交わりがわたしの家にあり、わたしは繁栄の日々を送っていた。・・・」(3-6)神はその様にヨブを心から愛し、彼の家庭と彼自身を祝福で満たしておられたのでした。
にもかかわらず今は全くその逆であり、不幸のどん底で、神から見放された者であり、人々は彼を罪人として責めるのです。回顧の裏でヨブは「どうか、過ぎた年月を返してくれ、神に守られたあの日々を」(2)と叫びます。「これもいいことです」などとしおらしいことは言わず、正に「悲しんでいる人」です。自分のすべてを失った「心の貧しい人」です。それを喜んだりしない。ヨブは孤独の中でそこに立たされます。
ヨブはここで神のところに逃げ込んでいます。大切なことは、苦難の中で、神を離れるのではなく、前よりも深い気持ちで主の救いを待ち望んでいることです。ヨブ記の主張は、ここに隠されています。自分の豊かさ、幸せ、義、賢さ、人望、名誉、地位と言ったこの世のあらゆる物、自分にはあると思っていた信仰さえも無くなり、全く何も無くなった時、何ができるでしょう。しかもサタンのせいではなく、神の御手によってそこに追いやられるのです。ヨブは今の苦しみをサタンのせいとせず神の御手とするのです。
私たちの中に何か少しでも可能性があるとそれを頼りにする。それが奪われると絶望の中におかれます。神はその最後の一つまでも奪われる。それは例外なしです。何もできないところで、ただ神の御手を待つしかない所に立たされるのです。神がそこに人を追いやられる。
イスラエルが荒れ野の砂漠で飢え渇いたとき、主の奇跡の泉に潤い、奇跡の食物マナを頂き生かされたように、そこに神の御手を知るのです。そこでこそ、神がその人の神となり、その人が神の民となられます。その出会いこそが信仰の世界です。それ故に耐えられないような試練はないのです。試練と共に逃れる道をも備えていてくださいます。(コリント一、1:13)逃れる道とは神の御手であり、私たちはその時を待つのです。神の祝福をいただかない前に、「苦しみも良いこと」とするのは自分の支配の中に神をおくことであり、信仰ではありません。
飛ぶ鳥も落とす勢いでうまく行っている時、それはいつまでも続くように思えます。人になんか頼らなくても自分でしっかりと責任がとれる。神も自分が守るのだとさえ考えます。しかしそれはいつまでも続くことではありません。かならず断たれる時が来る。その時、今まで見ていたことが見えなくなるでしょう。
ヨブは苦難の中で、かつての良き日々を回顧しつつ、何もできません。ただ主を待ち望むのです。それは絶望することが目的ではありません。真に生きることが目的なのです。復活の主は弟子たちに現れ「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束された者を待ちなさい」と言われました。(使徒1:4)主を失った弟子たちは、迫害を恐れて隠れて祈っていました。主が送ってくださるという聖霊が降ること(ペンテコステ)を待っていたのです。彼らにできることは、ただ主を待つのみでした。これが復活信仰です。神様は私たちをそのところに導かれるのです。ペンテコステまでの日々、主のお助けを待つ者とされましょう。