今週の説教要旨

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2013年4月14日

「知恵はどこから」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記 28章 1-28節

 主イエスは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ」と言われました。(マタイ10:16)続けて「人々を恐れてはならない」(26)とも言われました。狼の群れの中に送り込まれた羊は恐れて当然です。それを「恐れるな」と言うのは、そこに主が共にいてくださるからです。この見えない現実を見るのです。それ故に「恐れるな」と言われるのです。そして聖書は「主を畏れることは知恵のはじめ」(箴言1:6)と教えます。

  

 ヨブ記28章では、知恵はどこから来るのでしょうと言う問題設定で始まります。ヨブは突然襲ってきた不幸を身に受けて、友人と論争の末、人の知恵はどこから来るのかを問い始めます。「人は暗黒の果てまでも行き、死の闇の奥底をも究めて鉱石を捜す」(3)と言うように、人の知恵は行き着くところを知らないほど発展し、探求します。科学の発達は限界を知りません。「獅子もそこを通らず、あの誇り高い獣もそこを踏んだことがない」(8)その様なところを人は開発し、自分たちの知るところとします。大宇宙のマクロから究極のミクロの世界まで知り得ないところがないと思われるほどです。非科学的な迷信の支配していたところが、科学の発達によって極端に狭められています。(ロビンソン「宗教と科学の闘争」)「人は、硬い岩にまで手を伸ばし、山を基から掘り返す。岩を切り裂いて進み、価値あるものを見落とすことはない」(9,10)。「では知恵はどこに見出されるのか、分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場所を知らない」(11-13) 確かに社会は非宗教化して、「成人した社会」となってきた。しかしその反面、どこかとんでもなく愚かにもなっているのも事実ではないでしょうか。

  

 知恵はどこにあるのでしょうか。 深い淵も、海も言うのです。「私のところにもない」(14,15)と。「知恵は純金によっても買えず、・・オフィルも金も美しい縞めのうもサファイアもこれに並ぶことができない・・では知恵はどこから来るのか」(15-19)。どんなにたくさんの財宝を積んでも学者に尋ねてもこの知恵は知らないと。更に滅びの国や死も「それについて耳にしたことはある」(22)としか言えません。不幸になったら気がつくのか、国が滅びたら知恵が得られるのかというと、そうでもない。不幸は不幸でしかない。こんなに便利になったのに、どうしてゆっくりできないのでしょうか。こんなに豊になったのに、どうして不満が多いんでしょうか。こんなに賢くなったのに、どうして優しい言葉を知らないのでしょうか。こんなに親切にされているのに、どこが不満なのでしょうか。

  

 ヨブは「その道を知っているのは神」とします。そして神は私たちに言われます。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけることそれが分別」(28)と。ごく単純なことです。科学の発達によって非科学的な恐れはなくなりました。しかし、それで人は賢くなったのではありません。パウロは「 彼らの目には神への畏れがない」(ローマ3:18)「キリストに対する畏れをもって、互いに仕えなさい」(エフェソ5:21)と教えています。畏れがなくなったら、立派なエンジンがあってもブレーキのない自動車と同じです。賢いようでいながらまったく危険な自己本位の愚か者になります。主を畏れるということはどういうことでしょうか。そこには深い愛が前提になっています。

 主が十字架にかかって私の罪を許してくださったという大きな愛に目を注ぐときに、主への畏敬が起きます。罪の誘惑から逃れるのは、この主の圧倒的な愛に目を注ぐことです。畏れの根拠には神の愛がなければなりません。それを抜きにすると恐怖でしかありません。恐怖からは信仰も知恵も湧きません。神様が一緒にいて遊んでくださる大きな喜びから、知恵が来るのです。

  

 愛を知り、生きようとするときに恐れが生ずるのです。絶望しているときには怖さはないでしょう。神様がわたしのような者と共にいて、愛してくださっている。私の中には知恵はない。しかし神様に頼っていくときに無尽蔵な知恵を下さる。そこに罪の自覚と畏れがあり、キリストの十字架の愛があります。それを知って活きることが知恵です。

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。