今週の説教要旨

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2013年4月7日

「わたしの義を奪い去る方」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記 27章 1-23節

 「神の国に入る」とは、神の御支配に入ることです。それはまた自分の支配を棄てることでもあります。しかしそれは自己否定とは違います。真の自己受容です。それを救いと言います。

 ヨブ記27章は、その冒頭で「彼はわたしの義を奪い去られた」(2,口語訳)と言います。主が「神の国とその義を求めなさい」と言われたのは、違う神様なのでしょうか。ヨブはまた、そう言いながら「わたしは自らの正しさに固執して譲らない」(6)と主張します。奪われた義にどうして固執できるのでしょうか。自分の正しさなどに固執すること自体が、傲慢であり、自分の罪深さを証明しているのではないかと思われます。このような言葉は信仰者にはふさわしくない言葉に聞こえます。

 更に7節以後で、友人たちを「敵」「悪人」「逆らう者」「不義な者」「信じない者」「神に祈りを聞かれない者」と決めつけています。その根拠はどこにあるのでしょうか。神までも敵に回し、忠告する友人たちを悪人呼ばわりするヨブは果たして何者でしょうか。気が狂ったのでしょうか。

 11節以後では、罪人の裁きを説きます。その内容はそのまま友人がヨブに向かって言っていた内容であり、その言葉をそのまま相手にぶつけるのです。彼らの将来は厳しい神の裁きに遭うしかないと、逆に彼らに悔い改めを迫るのです。この章を読む限り、自分を義人とし、相手を悪人呼ばわりするヨブこそ傲慢なサタンの虜になっているのではないかと思われます。これを矛盾しないように説明するために、この箇所11節以降を3人目の友人ツォファルの言葉であるとして説明しようとする学者も少なくありません。ツォファルの言葉がないからです。25章のビルダドの言葉が極端に短くて、順番で行くと次はツォファルの言葉があるはずなのですが、見られません。これは間違いであるというのですが、そうではない。ヨブの主張が彼らを黙らせているのであり、ここにこそ大切なヨブの主張が隠されています。彼は「あなた方自身それを仰いだのに」と言って彼らの言葉をとって反論します。

 もう一度、初めから見ましょう。「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた」(口語訳)。ここで言う「義」は、私たちの今持っている共同訳の聖書では「権利」となっています。義とは生きる基本のことを意味します。英語で言うと、rightです。義とも権利とも訳せます。文語訳では「義しき審判を施し給わざる神、わが心魂をなやまし給う全能者この神は活く」とあります。神はヨブから、家族、財産、健康、名誉、権利、自分の存在の根拠となる全てを奪われたのです。ヨブはここで自分の義であり権利であるものを奪ったのは神であるとするのです。人ではない。敵でもない、偶然でもない神の納得のいかない裁きであるとするのです。その何もなくなったところになお神の息が鼻にあり、生かされているのです。その時、人はどうするか、それがヨブ記のテーマです。神は人に永遠の命を与えるために、そこに人を追いやるのです。

 ヨブは、「神の息がまだわたしの鼻にあり、わたしの息が残っているかぎり、この唇は決して不正を語らず、この舌は決して欺きを言わない」(3,4)と宣言します。どこまでも自分の正しさに固執するのです。その正しさの根拠はもう自分の側には何もありません。彼の根拠は「神の支配するところ」「神の息」にこそあるのです。パウロは「なんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体」(ローマ7:24)と言っています。その死の体を生きたものにしてくださる方によって義とされるのです。それを「信仰義認」と言います。

 神はヨブの義を奪いました。それは本当の正しさを得させるためです。その正しさは誰も否定できないものです。神とヨブの共同作業による義であり、「全能者にかけ」(2)たものでした。どんなにしても奪われることのない神の約束にあるのです。それこそ神の国であり、神の御支配するところです。神は、主イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。神はキリストの義を奪われたのです。そして私たちの贖いとされました。そこにキリストの義があるのです。そして私たちの義はそこに根拠を持つのです。

                                            

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