2013年3月31日
「義とされた者」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 26章 1-14節
イースターおめでとうございます。主イエスは十字架に架けられ、墓に葬られました。3日目の朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメらがイエスの遺体に油を塗るため墓に行きました。しかしその墓には主イエスの体はなく、空でした。そこに天使が現れて「あの方は死人の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と言いました。これが復活の出来事でした。(マタイ20:1-)復活の主は「ガリラヤ」に行かれる。そこは、弟子たちにとって自分たちの生活の場であり、現実の場です。主はそこに先に行っておられます。今日もまた主は、 私たちのところに来てくださっています。そこで主にお会いしましょう。
ヨブ記26章において、8回目のヨブの反論が始まります。ビルダドが「どうして、人が神の前に正しくありえよう。・・・まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」(25:4-6)のだからと、ヨブを批判しました。ヨブは言い返します。「あなた自身はどんな助けを力のない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか・・誰の言葉を取り次いで語っているのか。誰の息吹があなたを通して吹いているのか」(26:2-4)と。これは、ビルダドの神の超越性についての正統な神学である言葉が人を癒すものではなく、逆に、陥れる結果になっているというのです。
続いて、ヨブは5節以下では「神は御力をもって海を制し、英知をもってラハブを打たれた。・・・だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか」(12-14)と神の超越性を説いています。神様の偉大なこと、自分たちがいかに小さな存在であり、主の御心を知り得ないものであるかを告白しています。自分の手の中に神を捉えようとするのではなく、神の大きな手の中で自分を捉えようとするのです。
前半ではビルダドの神の超越性の説教について、皮肉を込めた厳しい批判をしながら、後半ではビルダトの説教の繰り返しのように、神の超越性を讃美しているのです。ここにはヨブの一貫性がないばかりか正反対のものが並列していると感じられます。これはビルダドの言葉を間違えて、ヨブの言葉としてここに入れた編集の誤りであるという説もあります。しかしそうではない。ここに一つの大切な真理が隠されているのです。神の超越性と限界性。十字架と復活です。神の御支配と私たちの現実です。激しい勢いで抗議することと、全く逆の素直さが共存することです。
E・フロムは詩篇について「しばしば詩篇の終わりの方の作者は、はじめの方を作った人とは別人の人のように思えることがある。確かにそれほど違っているが、しかし作者は依然として同一人である。作者が変容したのである。より適切に言えば、作者が、自らを絶望と不安の人間から、希望と信頼の人間へと変革したのである」と言っています。詩篇22篇を見ると、はじめは「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と苦言をぶつけていますが、終わりには「わたしの魂は必ず命を得、・・恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」と神讃美で終わっています。神は超越した方であられる。同時に私たちのところにおいでになり、その小ささを共に耐えてくださる方です。私たちに先立って。その神によって義とされるのです。
一人の優秀な技術者が鬱症状の中で、父親のことを思いだしたそうです。大変厳しかったようです。いつも怖い顔をしていたそのイメージがわっと頭に浮かんできてしまいました。「あの親父が」と思ったらなお病気が進んでしまったというのです。心療科の医者の「じゃあお父さんのお墓に行って、うんと罵倒してきなさい」という言葉で「罵倒するだけじゃ気が済まない。竹刀を持っていって父親の墓をぶったたいてくる」と言い墓に行きました。そしてお父さんの墓を新聞紙で叩いているうちに、父の愛を知り、終いにはお墓を抱いて泣きじゃくっていたそうです。
この転換が信仰です。神に求め、泣き、叫び、悲しむことが無いのが信仰ではありません。辛いガリラヤから離れるのではなく、そこにおられる主に出会うのです。それが義とされた者の信仰です。神を離れずに、全てを御支配されている神に出会いましょう。