今週の説教要旨

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2013年3月17日

「わたしを遣わしてください」 

榎本栄次 牧師

聖書 イザヤ書 6章 1-13節

 私たちは神に呼び集められてここにいます。それが教会であり、私たちの礼拝です。教会は神に呼び集められ、共に神を礼拝する共同体です。それを召命(コーリング)と言います。私たちは呼び集められ、遣わされるのです。

 世光教会は来年度、「わたしを遣わしてください」という年間テーマを掲げて歩むことを提案します。イザヤ書6章にはイザヤの「召命記事」があります。イザヤは、南王国ユダのウジヤ王の死んだ紀元前742年、「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」(イザヤ6:1)のでした。そこには多くのセラフィム(モーセの造った青銅のヘビ、列王記下18:4)が飛び交っていました。そして「聖なる、聖なる、聖なるかな」という賛美の歌を聴きました。このようにイザヤが預言者としての召命を受けたのは神殿における礼拝のまっただ中においてでした。礼拝に参加し、たかれた香の煙に包まれ、置かれている青銅のヘビを見、聖歌隊による賛美を聞いているとき、天上の神殿に参加していたような気分になったのでしょう。「神殿の入り口の敷居が揺れ動き」とあります。神様を見たというのです。神の顕現に振れる(出エジプト記19:18)、これが礼拝です。

 イスラエルにとって、「神を見る」ことは死を意味しました。聖なる神に直面した時、人間は自分の小ささ、罪深さを知り、畏れの念を感じるのです。イザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。」もうだめだ、とため息をついたのです。イザヤは聖なる神の前に自分の罪深さを感じて恐れおののいたのです。

 漁師ペトロが主イエスに出会った時「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しています。(ルカ5:8)聖なる神に出会った時、私たちは罪深い者であることを告白せざるを得なくなります。これが礼拝です。

 罪を告白したイザヤに、神は自ら彼に罪の許しを宣告されます。神の御用をするのに全くふさわしくない者が、許される宣告を受けるのです。罪の許しは、犠牲を伴うものですが、ここではただ神の側からの憐れみによるものです。逃れ場のように、憐れみをいただくのが礼拝です。

 罪の許しに続くことは派遣です。主イエスは「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)と言われます。神の言葉を伝える神の働きに協力することをミッション(宣教)と言います。イザヤは「誰を遣わすべきか」と天上の神の会議を聞き「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と申し出ました。この応答もまた礼拝です。

 預言者の召命はさまざまです。モーセは「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。・・・」(出エジプト記4:10)と言い、ギデオンは「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」ととまどい、エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ1:6)と断っています。イザヤはこれらとは対照的に「わたしを遣わしてください」と申し出ました。祭司サムエルが「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル記上3:30)も同じ姿勢です。いずれにしても主のミッションに参加した預言者たちです。礼拝に於いて「はい、わたしはここにいます」と申し出ることが礼拝です。

 次に、主が「行け」と命じられるところは、「悔い改めていやされることのない」(10)ところでした。現実の場は、理想とはほど遠いサタンの支配下にあります。とは言ってもそこは神とは関係のない、意味のないつまらないところではありません。時代は暗く、希望のもてない現実があります。「しかしあなたがたは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない」(申命記4:29)とあります。どのようなときにもそこで神のみ顔を仰ぐのです。そこで「イエスは主なり」と告白しつつ歩むとき、そこは祝福の場と変えられます。留時が来ます。この主を待つことが礼拝です。

 最後にすべてが滅び去るときが来るのです。その切り株から小さな芽が出る、そこが希望の救いです。主イエスは「小さいこと」に気をつけなさいと言われます。弱い立場におかれた人、それは捨てられた民ではない。そこにキリストがおられます。それを仰ぐのが礼拝です。「わたしを遣わしてください」と申し出る礼拝に共に与りましょう。

                                            

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。