今週の説教要旨

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2013年2月17日

「貧しい人は幸いか」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記24章 1-25節

 主イエスは、「貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われました。(マタイ5:3)しかし、本当に貧しい人たちは幸いなのでしょうか。清く、貧しく、美しくありたいと願いますが、時として貧しさは人を罪に陥れたりします。貧しいことは不幸なことであり、できることなら豊かとまでは行かなくとも、貧しさから逃れたいと願います。

 ヨブによれば、貧しい人は「着るものもなく裸で夜を過ごし、寒さを防ぐための覆いもない。山で激しい雨にぬれても身を避ける所もなく、父のない子は母の胸から引き離され、貧しい人の乳飲み子は人質に取られる。彼らは身にまとう物もなく、裸で歩き、麦束を運びながらも自分は飢え・・・」(24:4-12)どうしてこのような人たちが幸いでしょうか。他方、悪人は「地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る」(2,3)このような悪人が大きな顔をして幸せに暮らしている。

 この世の事象に目をやると、神の御支配よりも、うまくやるこの世の知恵の方が賢く思えてしまいます。「神の日」が見えません。私たちはこうして主を礼拝するために教会に集まっています。これは「神の日を見る」ためです。「神なんかいるものか。ばれなければいいのだ」「強いものが正しい」とされる社会です。しかし私たちはそのような日々でありながらも「神の日」を待つのです。それはキリスト者の計り知れない特権であり、恵みです。それは神を畏れることであり、私たちの恵みであり、知恵です。礼拝を守るということは、私たちの戒めであり、恵みです。どうしてこのようなことが許されてよいのか、と問いたくなることが屡々です。「なぜ神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」(1)とヨブは問うのです。「神の日」とは神の主権が現れる日です。しかし今出会っている現実はそこからほど遠いように思えるのです。「町では死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めて下さらない。」(12)これがヨブの苦しみ悩むところです。なぜ、全能者は不正をそのままにしておかれるのか。なぜ、神は抑圧された者や搾取されている者の苦しみをそのままにして、傍観しておられるのか、と問うのです。

 ヨブの疑問は、自分の身の上から、多くの貧しい人々の悲しみや苦しみへと移っています。それは神への不信ではなく、神を信じ、それに全てを依り頼んでいる者であるが故に出る問いです。この世界に横行している悪が何の罰も受けず、何も悪いことをしていない子どもややもめが不当な扱いを受けて苦しんでいるのです。どうしてそのままになっているのですか。「神の日」は見られないのですかと問うのです。

 「この問いに答えることができるのは、痛みのない客観的な傍観者や、正解を用意している神学者ではありません。同じように苦しむ者だけがヨブに答えうる」(ドロテー・ゼレ「苦難」)そしてその方はただ一人、自ら十字架にかかり、苦難の僕となられた方、わたしたちの贖い主、イエス・キリストのみです。     

 主イエスはペトロの家に行かれたとき、そこで寝込んでいたしゅうとをごらんになり、その手に触れていやされました。またそれに続いて大勢の悪霊につかれた人をいやされたという記事があります。その後にイザヤの預言が引用されています。「彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った」(マタイ8:17)ここに、主のいやしと受難が並べられています。すなわちイエスは人々をいやされたのは御自分にその痛みを引き受けられたということです。主は、多くの病をいやされました。それはその痛みを身に負われたからなのでした。そこで「幸いである」と祝福されたのです。この主の贖いをなくして「貧しい人々は幸いである」とは決して言えないのです。

 私たちが「神の日を見る」のは、ここに主が来てくださり、共に病を担っていてくださることを知ることです。今がその時です。それを信じ、主を待つことが主を畏れることです。アウグスティヌスは「神は悪をも善用されるほどに、全能であり、善なる方である」と言いました。

                                            

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。