今週の説教要旨

HOME  >  説教要旨  >  2013年2月10日

2013年2月10日

「神の沈黙」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記23章 1-17節

 「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」(箴言17:3)とあります。金や銀が精錬されて純粋になるように、信仰もまた練られて成長します。それは神の沈黙に出会うことでもあります。一切のものが断たれ、ただ黙想するしかないところに聞こえてくる神の沈黙の声があるのです。信仰はその神の言葉に耳を傾けることです。いくら祈っても答えがない。納得のいくことが起きてこない。はたして神さまはいるのだろうかと疑いが起きるのです。ヨブ記の示す信仰の世界は、安定した不動の心境ではなく、新しい未知なる世界へ出て行く出エジプトのようなことです。信じるとは疑いや迷いのないことではなく、孤独、疑い、迷い、不安の中で出会う新しい世界のことです。

 不幸になったり、神さまがどう思っておられるのか分からないようなとき、そこで語られる真の福音が聞こえてくるのです。こうして信仰は練られて、深められなければなりません。私の手の中にある神が沈黙し、神の方から静かに聞こえてくる福音です。

 苦難を受けたヨブの最初の反応は、神の受容であり、神への信頼でした。悲嘆にくれながらも、しかしヨブはゆるぎない確信をもって告白しています。「わたしは裸で母の胎をでた。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)と。さらにヨブの苦しみは増し全身の痛みの中で、妻は「神を呪って死になさい」とまで言いますが、彼はその妻の言葉を退けて、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)と言いました。

 この素朴なヨブの信仰は、愛する者を亡くした時など、悲しい信仰者の慰めの言葉です。しかしその信仰は自分の手の中にある神であり、限界があります。神は私たちをさらにその外へと誘い出されます。そこに留まっている限り、サタンの罠である観念的な神学論にうち勝つことができません。間断なく襲ってくる貧困や苦しみに遭うとき、無責任に問題を安易に受け入れてしまうことがあります。「よかった、よかった」と自己解決してしまう誘惑にあいます。そうして神に向かうことを止め、安易な解決で妥協してしまおうとするのです。神の沈黙に耐えられなくなり、深い救いを待てず、性急で騒がしい安易な解決をつくり出してしまうのです。ヨブの友人たちは彼をそこに誘っているのです。悪や不正義に対して諦めてしまうという弱さを持っています。私たちは、信仰に洞察が深められ、活性化されねばなりません。

 子どもがとんでもないことをした時、「ああ、これも神さまが下さった恵みです」と感謝して受け止める。その素朴な信仰は基本的に大切です。しかしそこに限界のあることを知らなければなりません。それはとんでもない罪を重ねるサタンの罠にはまってしまうからです。むしろ顔を真っ赤にして怒ることが必要でしょう。神が守ってくださっているから安心して怒れるのです。人を恐れなくてもよいのです。

 ヨブはここで、エリファズに向かうことから離れて、神に向かう方向転換をしました。彼は自分のことを「わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」(10)と言っています。ヨブは神に問いかけ、神を探し求めます。「だが、東に行ってもその方はおらず、西に行っても見定められない。北にひそんでおられて、とらえることはできず、南に身を覆っておられて、見いだせない」(23:8,9)神の沈黙に出会い、ヨブは神に激しく抗議し、詰め寄るのです。それは厳しい孤独な旅に出かけることです。この困難な旅の過程は、「全て神からのさずかり物」とするヨブの初めの素朴な認識を変質させたり、後退させるものではありません。その逆で、ヨブの信仰は強化され、深化され、磨き上げられているのです。そして新しい神との出会いに導くのです。ここにこそヨブと神との全面的な出会いが成立するものでした。

 主イエスは、十字架にかかり復活して天に昇られました。今は、この世の力のみが支配しているとき、神の声の聞こえない沈黙の時です。しかしその時が神と私たちとの関係が断たれたときではなく、この時こそ主に出会うときです。沈黙の中で語られる主の御言葉に耳を傾けましょう。

                                            

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。