今週の説教要旨

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2013年1月27日

「慰めるのは誰か」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記21章 1-34節

 主イエスは「悲しんでいる人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と言われました。(マタイ5:4)悲しいことがどうして幸いなのでしょうか。悲しい出来事が身に及んだとき、誰かに慰めてほしいものです。しかしそれは難しい。人の慰めはかえって傷を深くすることがあります。的はずれのそれは、人を欺くことにもなります。コヘレトは「なんという空しさ、なんという空しさ、すべてが空しい」(1:2)と言います。悲しんでいる人がどうして幸いなのでしょうか。

 ヨブ記21章は、友人ツォファルの説教に対するヨブの反論です。「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」、彼らの説教に対して「空しい言葉でどのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」(34)と言っています。聞いてもらうことは大きな慰めになりますが、聞くことはなんと難しいことでしょう。ヨブは反論します。

 「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
  子孫は彼らを囲んで確かに続き、その末を目の前に見ることができる。
  その家は平和で、なんの恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない。」(7-9)

 ヨブにとっては、正しいことをしていたら幸せになり、悪いことをしていたら必ずその報いを受けなければならないというが、欺瞞にすぎません。確かにこの世の現実は、神のことなど知らない、うまくやればいい。ばれなきゃいいんだ、と要領よくやっている人が皆から尊敬を集めていることが多くあります。逆に、真面目に生きている人が嫌われ、煙たがられ、のけ者にされ苦労しているのです。だから友人たちの言っていることは、欺きであり、なんの慰めにもならないから、黙ってくれた方がましだというのです。

 正義が常に正当に扱われているかというと、むしろその逆のことが横行しているのが現実です。勧善懲悪は万民の好みです。映画やドラマを観る時、誰もが正しい方を必死で応援しています。人は「神に似せて造られた」(創世記1:27)とあるように、神様の方に向かうように造られているからです。しかし現実となるとそうはいきません。どうしてでしょうか。神様の方に向かおうとすると、逆風が吹いてくるからでしょう。恐ろしいものが前にやってきて邪魔をするのです。

 誰かを助け救おうとすると、煩いが出てきます。困難が出てきます。そこでがんばっていると「悪者」のように言われるかもしれません。場合によってはその両親から、または本人からさえも恨まれるかもしれません。困っている人を見ると、何とかしてあげたいと思います。そしていろいろな対応をします。傍観から始まって、援助、お節介、説教、怒り、対立、放任、諦め、無視、寄り添い、共存、後押し、自立という順序をたどるそうです。人の悲しみを聞くとき、聞く側に力が必要になります。ある覚悟がなければ人は救えません。見える結果だけを求めていると空しくなります。信仰とは神の側からの働きに目を注ぐのです。「悲しいこと」がいいのではなく、その向こうにあるものにつながることにより、悲しみが祝福に変えられるから幸せなのです。キリスト者は闇を好むのではありません。闇の向こうに目を注ぐのです。

 マルタとマリアは、主イエスのところに来て「主よ、ただ今、あなたの愛しておられる者(ラザロ)が病気をしています」と訴えました。(ヨハネ11)主が愛しておられる者でも病気もするし、死にもします。信仰は、その向こうに目を注ぐのです。愛する者を亡くした家族はどんなに悲しいことでしょう。だれが彼を慰めるのでしょうか。傍の者は理解できません。

 しかし主に愛された者にとっては、死は終わりではなかったのです。その出来事は、神の栄光が現れるためになくてはならない栄光への道でした。「もしわたしを信じるなら、神の栄光を見るであろう」と言ってラザロを生き返らせてくださったのです。慰めるのは主イエス・キリストです。それにつながること、それに目を注ぐことがまことの慰めです。ヨブに用意されている世界はその慰めであり、神の国です。

                                            

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。