今週の説教要旨

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2013年1月6日

「呪いと祝福」 

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記18章 1-21節

 明けましておめでとうございます。この年も御心が行われますようにお祈りします。

 不幸なことが起きると呪われている、幸せなことが続くと祝福されていると考え、出来るだけ祝福の多い人生を送りたいし、呪われたような人生は避けたいと願います。「これはいけないことですよ」と注意されると、厭な人だと思いがちです。しかし必ずしもそうではないかもしれません。たとえ嫌われてもこの人にはこれを言ってあげたい、ということがあります。

 ヨブは不幸のどん底で、なお祝福を求めています。それは、神との関係をつなぐことです。友人たちにはそれが理解できず、彼の身に起きた不幸は神に裁かれていることを悟らせようとします。 友人ビルダドは、はじめの説教(8章)において、ヨブの不幸を神の裁きとしながらも、罪を悔い改めれば祝福が返ってくると諭しました。しかし今回、二回目の説教では、ヨブの頑なな言葉を聞いてその優しさは消え、ヨブこそが「神に逆らう者」(5)であり、悪人の末路についてその呪われた人生を予告するのでした。その行く末は「神に逆らう者の灯はやがて消え、その火の炎はもはや輝かず・・・破滅が四方から彼を脅かし、彼の足を追い立てる。・・・下ではその根が枯れ、上では枝がしおれる。・・子孫はその民の内に残らず、住んだ所には何ひとつ残らない。未来の人々は彼の運命に慄然とし、過去になった人々すら身の毛のよだつ思いをする」(5-21)このように彼の人生は呪われるべきであり、今受けている苦しみも当然受けるべき神の怒りによるものであると、情け容赦のない言葉を浴びせます。ビルダドのこの言葉は、伝統的な神学に立ったものですから、至ってまじめな指摘であります。しかしこれこそが後に神からお叱りを受ける内容でした。

 一つの固定した教義に捕らわれて、それに現実を当てはめて説明しようとすると、大きな悲劇を生む結果になります。その人はいたって真面目なつもりなのですが、そうであればあるほど悲劇は大きくなります。愛のない教義は、柔軟な考えは許されません。時として、人を殺すような非情な言葉や、血も涙もない残酷な行動も平気でできてしまうのです。彼は何も考えなくてもよくなります。神に忠実なつもりでありながら、逆に神を自分の教え込まれた教義の中に閉じこめてしまいます。不幸が起きるのは悪の結果で呪われている。幸せになるのは正しい行いのために祝福されるからということです。ビルダドのヨブの痛みを共有せず、神の座に自分を座らせていることです。

 聖書が言う祝福と呪いの基準は何でしょうか。それは自分が神になることではなく、自分の中で神が神になって下さることです。しかし人は最期までこれを厭うのです。悪魔は巧妙です。神に最も忠実な言葉を用いて神から離そうとするのです。イエスはそれを「婚宴のたとえ」(マタイ22:1-14)で教えています。王子の婚礼に招かれたとき、招かれた人たちがいろいろ理由をつけて次々に断るのです。使いの人を殺してまで拒否するというのです。それぞれに商売がある。畑の仕事にと出かけていき、行こうとはしません。どうしてでしょうか。婚礼への招待というのは、私たちに対する神様の恵みの座への招待です。人々はそれを拒否するのです。神さまが私の中に入ってきて神になるのを嫌うのです。それが何よりめでたいことなのですが、それを拒否するのです。

 ヤコブの11番目の子であるヨセフは、不幸の連続でした。兄たちにいじめられ、殺されかかったが、難を逃れてエジプトに奴隷として売られた。そこでもあらぬ罪を着せられて監獄に入れられ、損ばかりしています。そんな運命でしたが、彼はどこに行っても困ったことはありませんでした。聖書はそれを「主が共におられたから」と説明しています。最後には、悪意で陥れようとした兄たちが、ヨセフに助けられるのでした。

       

 呪いという字は祝いという字に似ています。呪いは口でののしります。その口を祈りに変えると祝いになります。辛いことを祈りに持って行くのです。立派な説明で、納得させようとすることは、返って神を冒涜することになります。その苦しみのそばに立って一緒に祈ることです。神の業を待つことです。

                                            

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聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。