2012年12月24日
2012年12月23日
「私の弁護人」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 16章 18-22節
クリスマスおめでとうございます。イエスさまのお誕生日をお祝いすることは、私たちの誕生日を祝うのとは別な意味があります。それはイエス様の喜びというよりも、私たちにとっての喜びだからです。この方の到来によって、絶望していたところに希望の光が差し込んだのです。
時として、暗い闇の中に立たされることがあります。その時は光が頼りになります。ヨハネによる福音書は、主イエスこそ「暗闇に輝く光」であると証言しています。光と闇は大小の関係ではなく、本質の違いです。闇はどんなにしても光には勝てません。光は小さくても闇が深ければ深いほど輝きを見せます。世界中で最も暗いベツレヘムの馬小屋が、キリストの誕生の光によって、どこよりも美しく輝き祝福されたところとなりました。暗闇をどう捉えるでしょうか。
パウロは、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」(ヘブライ12,6)と言っています。キリストに従う者が、大きな試みに合うのは自明のことです。その様な時に、戸惑い慌て、とても暗い気持ちにさせられるでしょう。また他人が苦しんでいる時、どう思うでしょうか。あれは信仰がないから神に裁かれたのだと思うでしょうか。
実はその様なときこそ神さまに一番近いところに立たされているのです。詩篇の記者は神が敵のようになると言っています。「 神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。 あなたは我らを網に追い込み、我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して、豊かなところに置かれた」(詩篇66:10-12)と。これはイスラエルがアッシリアの軍隊に囲まれて、四面楚歌の状態、絶望的なところに置かれた時のことを詠んだ詩だと言われています。恐れのなかで神に頼り一夜明けると、アッシリアは全軍消えていたのです。だからこのような時に、「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」(同66:1)と詠うのです。全能の主の御手に出会えたのです。だから「満願の献げ物をします」(財布をひっくり返す)(同66:13)と言っています。最高の喜びです。これが真の光です。
ヨブにとって今、神が敵となっています。彼の不幸の原因はサタンではない。神ご自身がヨブの敵となって待ち伏せする。「神は戦士のように挑みかかり、わたしを打ち破り、なお打ち破る」(11)「敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目を向ける。彼らは大口を開けて嘲笑い、頬を打って侮辱し、一団となってわたしに向かって来る」(9-10)。弱い動物を餌食とする野獣、容赦なく弓を射る戦士のようです。「わたしの手は不法もなく、わたしの祈りは清かったのに」(17)にもかかわらずです。
しかしヨブの神への信頼は更に深められるのです。「そのような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護して下さる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す」(19,20)方がいると告白しています。このようなヨブは決して憐れまれるべき人ではない。今、彼は誰よりも深いところで神にまみえています。表面しか見ない友人たちにはそれが見えず、分からないのです。
私たちの周りにはいろいろな事が起こります。自分がこれこそ正義だと思っていることが曲げられたり、信じていたことが裏切られたりすると、虚無的になったり、自暴自棄になったりしがちです。人を恨んだり、不運を嘆いたり、同情を得ようとして走り回ったりするかも知れません。しかしそれらは的外れであり、なんの励ましにもならない。「そんなことを聴くのはもうたくさんだ」(1)と言うしかない結果になるでしょう。
しかし真の神との関係はそこから始まるのです。誰も自分を守ってくれないとき、さらに「高い天に」神はいて、私を弁護して下さる。キリストの誕生は、私たちの弁護人の到来です。誰も私の傍にいないと思われる時に、主イエス・キリストこそがわたしの友、私の弁護人として立って下さる、その光をこの暗闇の中で見出すことが許されているのです。ハレルヤ!