2012年12月16日
「人を生かす言葉」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記15章 1-13節
キリストの御降誕は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った」(ヨハネ1:1-2)という言葉に表され、その目的は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)ということに尽きます。その言は、神からのものであり、独り子キリストを指しています。
言葉は命を与えるし、また殺す力を持っています。私たちは人を生かす言葉をこそ求めます。ところが逆なことがいかに多いことでしょうか。
不幸な目にあって、苦しんでいるヨブに対して友人エリファズが二度目のまことに正しい説教を始めます。ヨブを立ち直らせようとしますが、結果は逆でした。「知恵ある者が空虚な意見を述べたり、その腹を東風に満たしたりするであろうか」(1)。「神を畏れ敬うことを捨て、嘆き訴えることをやめた。あなたの口は罪に導かれて語り、舌はこざかしい論法を選ぶ」(4,5)。今までの信仰深い敬虔なヨブはどこへ行ってしまったのだ、と問うのです。「衣食足りて礼節を知る」と言います。安定した生活の上に安定した信仰と神学が成り立っていました。人間はその安定した神学(常識)に依拠して敬虔に生きることが出来るし、また神への敬虔性がとなり人への倫理にもなるのです。ところがここで、敬虔なヨブの生活を支え、ヨブの世界を秩序づけていた神学が揺らぎ、崩れ去りました。ヨブにとって神がいなくなったのではない。その関係が壊れ、今までとは同じように敬虔な祈りが出来なくなり、ヨブは神に問い迫っているのです。
その様なヨブに対してそれは不遜なことであり、愚か者で「神を無視する者」(34)であり、その将来は神に罰せられた不幸が待つばかりだと諭します。信仰者の真面目な言葉です。エリファズにはヨブの問いが分かりません。なぜこのような不幸がやってくるのか、その原因はヨブには見あたらなかった。神の側には深い深い御心があるのでしょう。ヨブはそれを問い、それを知るまではどんなことがあっても自説を曲げないのです。この頑ななヨブをエリファズは許せず、修辞的な説教で一刀両断するのです。後に明らかにされることですが(42:7-)、それはヨブを否定していることではなく、神を否定することであり、人を生かさず、逆に人を殺す言葉なのでした。
言(ロゴス)には命があり、真理を示しています。人はその言によって生きるのです。すべてのものがそれによってできたのでした。その神の言とはなんでしょうか。
21節以下に、「悪人の一生」についてエリファズが言っていることは、そのままイザヤ書53章に示された「苦難の僕」の姿です。「彼は軽蔑され、人に見捨てられ、多くの痛みを負い、彼はわたしたちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」と。 そしてそれは十字架にかけられたイエスを示すものです。人々は「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(ルカ23:35)と罵ったのでした。 そして神はなんと、その罵りの言葉を通して救いを完成なさったのでした。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ5:11,12)これは単なる精神論ではありません。主がわたしに変わってその十字架を追ってくださったという言葉が真理となったのです。
「イエスは主なり」との告白の言葉はここから生まれ出てきます。わたしたちを生かし、ヨブを納得させる言葉はこの言葉をおいて他にないのです。人を生かす言葉は、ものわかりのいいカウンセラーでもなければ、賢明な真理を説く哲学でもない。イエスを主と仰ぎ、そのみ業に触れることによって新しい命に生かされるのです。キリストの御降誕はこのわたしたちのところに起きた出来事です。