2012年12月9日
「永遠の命」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 14章 1-22節
クリスマスは神様の側からの私たちに対する干渉です。それは神と私たちとの大きな関わりの始まりであり、永遠の命への招きであります。私たちの命はやがて消えてしまい、何の意味もなくなるものでありながら、キリストの救いによってかけがえのない神の民として迎えられることになったのです。朽ち果てるべき命が永遠のものにつなげられること、それがクリスマスです。
「永遠の命」とは、私たちの命が永遠に続くというのではありません。私たちの命は限られており、どんなに金を払っても時が来れば消え去るしかありません。信仰による永遠の命とは、私たちの限られたこの命が長引くのではなく、神さまの永遠につなげられて、永遠に命を得るのです。
ヨブは苦しみの中で、議論の対象を友人から神に移して、自分の命について直接問いかけます。
ヨブはまず、「人生の限界性」について問うています。(1-6)「人は女から生まれ、人生は短く、苦しみは絶えない」。(1) 「女から生まれ」た者であるから罪に汚れ弱い者であると言うのは、歴史的偏見の限界があります。男性はそれ以上に弱さや罪深さを持っています。いずれにしても人はどうしようもないほど弱く罪深い者であることは弁解の余地のない事実です。更にその人生は「花のように咲き出てはしおれ、影のように移ろい、永らえることはない」(2)ものです。(注・イザヤ40:8)また短いばかりではない。その内容は「苦難に満ちている」。一瞬にして財産も子どもたちも自らの健康も失い、妻さえも離反したヨブです。こんなに弱く汚れた者をこれ以上苦しめないで欲しいと神に願うのです。どうか自分から離れてくれるようにと懇願しています。
次にヨブは、人生の一回性を嘆きます。(7-12)木は切られてもまた芽を出すが、人は死んだらもうおしまいで何も残らない。なんと儚いことでしょう。ここには絶望しかない。「人間の側から死を乗り越える希望もない。・・人間が自身で死の眠りから覚める希望もなければ、また神自身以外に誰か人間を死から呼び覚ますことのできる者のいる希望もない。・・神が(そして神のみが)死の彼方に希望を生み出す可能性が、一つのはるかな灯火のようにヨブの精神の視界に浮かび上がるのである」(ワイザー)と言っています。自分の側にあるはずの希望が断たれ、ヨブは只神の憐れみに呼びかけるのでした。
第三に、救いの神を呼び求めています。ヨブはその手から逃れたい、その目から隠されたいはずの神に接近し、嘆願し始めています。「御手の業であるわたしを尋ね求めて下さい」(15)と。この矛盾こそがヨブの苦悩であり、彼の真実さと言えるでしょう。はるか彼方の神の側からの希望を求めるのです。
最後に、底知れぬ孤独について叫んでいます。神への嘆願にも関わらず、そこになんの保障もなく、孤独に陥るしかない闇が支配する現実があるのでした。深い痛みと悲しみの中にあるヨブにとってこれからどの様な希望があるのでしょうか。周りの状況、自分の心情には希望が持てません。とても不安になり、絶望が襲ってきます。「このまま行けば人々はきっと私を笑いものにし、攻撃してくるに違いない。ああもうだめだ。何もする気が起こりません」
このようなところから解き放ってくれるものはなんでしょうか。神の憐れみに呼びかけるのみです。神からの働きかけを求めることです。その時が、また神との深い交渉の時と言えるでしょう。「求めなさい。そうすれば与えられる」主は求める者によいものを下さいます。(マタイ7:7)
クリスマスは、このような私たちへの神からの干渉です。アドベントの日々を大切にしましょう。
神さまの永遠性につながるときに新しい希望に生かされます。
神を畏れなくなると 人が怖くなる
神のことが軽くなると 物が重くなる
神の声が聞こえなくなると 人の声が大きくなる