2012年12月2日
「黙ってはいられない」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 13章
今日からアドヴェントが始まります。救い主が私のところに来てくださるのを待つ期間です。
「人間はいたわるべきものではなく、尊敬されるべきものである」(ゴーリキ)という言葉は、人間をどう見るかについての鋭い指摘です。人が何か思わぬ困難を身に受けたとき、あるいはかつての強さを失って介護を必要とするようになった時、その弱さをどう理解するかということは、その人の人間観が問われます。「ああ、かわいそうだなあ」というのは容易なことですが、そこに尊敬するものを見るかどうかは、見る側の生き方が問われています。人は尊敬されることが生きる力になり、またそれが人としての存在価値となるでしょう。どんなに惨めな状態におかれても、そこに誇りや尊敬されるものを発見する時、生きる力を持つことができます。しかしその根拠は、持ち物や業績ではなく、神の救いと赦し、愛に根ざすものです。(「老人の知恵」バルト)
差別されて苦しんでいる人に対して同情や説教ではなく、沈黙と尊敬を持って傍らに立つことには、深い理解と愛を必要とします。深い神の御心を問うことから始まるのではないでしょうか。
ヨブは友人たちの心ない饒舌に対して「あなたたちは皆、偽りの薬を塗る役に立たない医者だ。どうか黙ってくれ。黙ることがあなたたちの知恵を示す」(4,5)と言っています。私たちはこの的はずれな忠告者になって、得意になっていないでしょうか。ヨブはここで、友人たちと論争するのが目的ではありません。神の御前に立って、神ご自身と話し、その御心を問うのです。その時に初めて慰めを得るからです。彼は御前に出ることを望みます。友人たちはそれをとんでもないこととして叱るのです。ヨブはそれを、神の御前に出て尋ねているのではなく、「へつらって」(8,9)いると言います。「護教」という言葉がありますが、キリスト教を守ろうとして真理を曇らせることです。それは神を愛していることではなく、信じていないのです。深い神の御心を知ろうとしない。友人たちはヨブを黙らせようとしますが、彼は黙ってはいられないからますます大声で叫ぶのです。
イエスが弟子たちと共にエリコを出ていこうとされたとき、道端で物乞いをしていた目の見えないバルティマイは、イエス様がそばを通りかかったと聞き、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。人々はこの盲人を叱って黙らせようとしました。彼の行動が常識はずれだったからでしょう。しかしそう言われてもますます大声で「主よ、わたしを憐れんでださい」と叫び続けるのでした。すると主は、彼をここに連れてくるようにと言われました。許された彼は、着物を脱ぎ捨てて駆け寄っていきました。主はバルティマイに「何をして欲しいのか」と聞かれると「主よ、見えるようになることです」と言いました。主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言いました。こうしてバルティマイは癒されて大喜びで走っていきました。(マルコ10:46-)人々がこんなイエスを歓呼してエルサレムに迎えた時、ファリサイ派の人々が「先生、お弟子たちを叱ってください」と言って黙らせようとしましたが、主は「もし、この人たちが黙れば石が叫び出す」と言われました。(ルカ19:40)常識や立場や伝統、身分など全てを越えて叫ばざるを得なかったのです。組織がどんなに整ったものであっても、信仰はそれをうち破ります。私たちもその例外ではありません。主との出会いはそれを越えさせるのです。
ヨブにとって、神はどのような方であるかというと、「殺す神」でした。「神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう」(15)とあるように、神は「殺す神」ですが、それをも越えて御前に出て叫ぶのです。
出エジプトのために神に呼び出されたモーセでしたが、神はそのモーセを「殺そうとされた」とあります。(出エジプト4:24)「殺す神」「敵となる神」が聖書には度々出てきます。「神が敵となった体験は、きわめて深刻なものであるが、それを経験する人は皆、神への信頼が深い人である」(左近淑「時を生きる」)。そのような主がここに来てくださった。私たちもまた、「主よ、来たりませ」と叫びましょう。