2012年11月18日
「大いなる不条理」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 12章 1-25節
イエス・キリストが十字架にかけられたこと、これ以上の不条理はありあせん。神がこれを許したことをどう考えればいいのでしょうか。ヨハネによる福音書は、イエス・キリストのことを光と表現しています。光というのは闇を照らすものです。光が現れるとき、闇が明らかになります。光というと、自分が幸せになることだけを連想しますが、必ずしもそうではない。光が照り輝くとき、大きな誤解による思い込みが明らかにされます。そこで戸惑い、ことによっては大きな争いにもなりかねません。ヨハネはキリストの来臨を「光がきた」と証ししました。(ヨハネ1:7-)
ヨブは「神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される」(12:22)といっています。そのためにそれまで堂々と大路を歩いていた人たちが混乱します。「この地の民の頭たちを混乱に陥れ、道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる。光もなく、彼らは闇に手探りし、酔いしれたかのように、さまよう」(24,25) と。それまで光の大道を歩んでいた人たちが全くの暗闇に置かれるのです。闇が照らし出されるからです。今光、今正論と思っていることが実は闇であったと言うことが明らかにされるのです。
この世の出来事にはどうしても受け入れることの出来ない不条理があります。「神に呼びかけて、答えていただいたことのある者が、友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が物笑いの種になるのか。人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと、安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ。略奪者の天幕は栄え、神を怒らせる者、神さえ支配しようとする者は安泰だ」(4-6)これが闇であり、不条理な状態といえるでしょう。それが光に照らされるとどうなるのでしょうか。
ヨブは友人ツォファルの説教に対して、強い皮肉を込めて反論します。ツォファルの説教の趣旨は、正しい人は栄え、悪人は神の罰を受けねばならない。いま不幸な体験をさせられているのは、自分の罪を神に悔い、赦しを求めるためなのだという、伝統的な宗教による勧善懲悪の思想を述べたのでした。ヨブはそんなことはよく分かっている。しかし現実はどうなのだ。その逆ではないか。神自らが敵のようになって弱い者を苦しめているではないか、神の真実はどこにあるのかと反論します。伝統的な神学に問いを投げかけ、否を称えるのです。
私たちは神の真実をどこで計ろうとするのでしょうか。自分の幸、不幸で計るのでしょうか。多くの新興宗教はそれを看板にします。そのために霊感商法がはびこり、巨額の集金がなされたりもしています。しかしそれらはみな「神を支配しようとする」ことでしかありません。それは大体強いものに都合のいいことであり、弱いものの言い分は封印されているのです。男の論理と言ってもいいでしょう。神の御心は、私たちに都合のいい(安穏に暮らすこと)ことばかりではありません。ヨブはそれを問いかけるのです。安穏に暮らす友人には理解できません。そこに光が当てられると彼らは見えなくなるからです。まさに光が闇になるのです。
アメリカの牧師アル・マイルズという人が書いた「ドメスティック・バイオレンスーそのとき教会は」と言う本があります。夫からの暴力に悩む女性に対して、多くの場合、教会や牧師は正しい姿勢をとれていないそうです。被害者である女性に対して、夫への従順を説き、罪の悔い改めを迫るのです。こうして彼女は闇の中に閉じこめられます。この本ではその姿勢が厳しく批判されます。ここに光が来るとどうなるのでしょうか。彼女が悪かったのではない。夫が悔い改めなければならないことが明らかになります。夫になる人は、全く取り乱し、戸惑い闇の中に陥るのです。
主イエスが十字架に架けられたとき、人々は「何度も、葦の棒で彼の頭をたたき、唾を吐きかけ」(マルコ15:19-)ました。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、・・私たちは彼を軽蔑し、無視していた。・・神の手にかかり、打たれたから」(イザヤ53:3-5)と思ったのでした。それほどの不条理はありません。この不条理こそが光としてこの世にもたらされたキリストの愛でした。ここでこそヨブの疑問は解かれるのでした。