2012年11月11日
「偽りの希望」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 11章
本当のことには痛みが伴うものです。その言葉が本物か偽物かの見分け方は、それが具体的かどうかにかかっているでしょう。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)というヨハネの言葉は、人々の希望と神の言葉がキリストにおいて具体化したことを示しています。この希望にはイエス・キリストの十字架の痛みがかかっています。
第三の友人ツォファルは、ヨブの「わたしに罪があると言わないでください」(10:2)と言う叫びを聞いて「答えないわけにはいかない」(3)と説得を始めます。無実を訴えるヨブが傲慢のそしりを免れないこと、神の無限性、全能性に対して人間の有限性と卑小さについて諭します。人の不幸はその罪に起因するものであり、それに気づかないのは無知と傲慢でしかない。ヨブの「私の主張は正しい。あなたの目にも潔白なはずだ」(5)という言い分を取り上げて、それこそが罪であると決めつけます。「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか」と問いかけるのです。「神は偽るものを知っておられる。悪を見て放置されることはない」(11)とヨブの罪を責め、それを認めさせようとします。
不幸な出来事の原因をその人の罪に探そうとすることは、伝統的宗教の基本です。神の絶対的優位の前に、人間の小さいことを持って罪とするのです。そこでは繁栄は、義への神からの報酬であり、祝福とされ、逆に不幸は、罪に対する神からの罰であり、呪いであるという規定です。それに気づかないのは無知と傲慢でしかない。この枠の中に全てを入れて解釈しようとします。
だから、はやくその頑なな心を改めて、神に赦しを求めなさい。「あなたの手からよこしまなことを遠ざけ、あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ、あなたは晴れ晴れした顔を上げ、動ずることなく、恐怖を抱くこともないだろう」「人生は真昼のように明るくなる。暗かったが、朝のようになる。希望があるので安心していられる」と、ヨブに対して希望を示すのでした。
しかし、この矛盾のない確信に満ちた第三者による説教は、ヨブの希望とはならず、その痛みを癒さないばかりではなく、さらに深い闇に落とすのでした。それが雄弁に語られれば語られるほど、現実を素通りしている。彼の語る希望は、偽りの希望でしかありません。彼の主張が間違っているのではない。そこには痛みがないからです。(注:よきサマリア人のたとえ、ルカ10:25以下)
カミュの「ペスト」は、村がペストに侵され次々死人がでる。その時、パヌルー神父は、その原因は村人の罪にあり、神の裁きが下っているとして、早く悔い改めようと呼びかけました。それは実に雄弁で、力強い説教でした。しかしそれを聞いた村人は、誰も癒されません。感動し同意するのは、外で健康が保たれている人たちだけです。村人は顔を伏せるばかりです。そんな神父でしたが、一人の少年の死の苦しみを目の当たりにして、変化していきます。彼は、神の御支配を受け止めきれないとまどいを隠そうとしていません。その説教は自信がなく弱々しくなりました。そして、主人公リウーは「神父は異端すれすれのところまでいっている」と思うほどでした。そこではじめて村人と出会い、新しい希望の声が聞こえてくるのでした。
サタンの目的は、神からヨブを引き離すことでした。ヨブ記1,2章でサタンの役目は終わっていません。ヨブが不幸に遭うことにより、神を信じなくなることが狙いです。ヨブはこのことを通してより深い神との絆を求めているのです。サタンは人を愛と真理から引き離しバラバラにしようとします。疑いと分裂、争いと屈服の支配を企てるのです。神学者の美しい言葉も、論理もそのために使います。そこには痛みがありません。
痛みや破れや苦しみを主の裁きとしてしか捉えない教義には、神の訓練、愛の鞭(ヘブライ12:6)と言う十字架の痛みがありません。それは偽りの希望です。主イエスは私たちのために十字架にかかってくださいました。ここにこそ真の希望があります。