2012年11月4日
「暗闇」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 10章
今日は永眠者記念礼拝を守っています、亡くなられた方も含めて私たちの命は、キリスト・イエスの贖いによって、永遠の命につなげられています。人生の不遇にあうとき、暗闇が身を包み、希望の光が消え去るようです。鴨長明は、世にはびこる5大災害を「方丈記」に表していますが、実に現代しゃかに通じるものがあります。ヨブもまた「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるようだ」(22)と嘆いています。突然襲い来た不幸な出来事の前で「わたしの魂は生きることをいとう」(1)、「なぜわたしを母の胎から引き出したのですか。わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに死んでしまえばよかったものを」(18)と神に抗議します。預言者イザヤもイゼベルの迫害を逃れて、ベエルシェバに来た時、一本のえにしだの木の下で自分の命の絶えることを願って「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」(列王記19:4)と祈っています。聖書の中に出てくる人物、特に預言者は多かれ少なかれ大きな苦難にあっています。その様な時、生きる希望が持てず、自分の死さえ望んでいます。そこにもキリストの贖いの光が差し込みます。
神の民となるのは、自分中心を止めることです。思い通りにならなくなったら止めるというのは自分が中心の生き方です。自分しか見えておらず、その存在の根拠が見えていません。傍若無人とは「傍に人無きが若し」で、傍にいる人に気づかないほど集中した様子のことですが、転じて自己中心で、自分勝手な振る舞いをいうようになりました。そんなときは自分も見えていないのです。
預言者たちは、苦難の中で主に問うのです。できることなら命も取り去って欲しい。その方がどれだけ楽か知れない。家族も神を呪って死ぬ方がましだと勧めます。しかし、彼らはそこには立ちません。それは自分が神になるのことへの誘惑でした。自分の命は神のものだからです。自分の存在について、周りも迷惑しているようだ。だれからも評価されない。バカにされてまでいたくない。しかしここにいるのは自分でいたいからではない。神に遣わされているのだ。神の御心に留まるしかないと神に向かうのです。
ある母親が、障害の子どもを抱えて苦しんでいました。これから先のことを考えると、この子にも自分にも何の楽しみもないだろう。いっそのことこの子を連れて死にましょうと考え、死に場所を探してさまよい、電車に飛び込もうとしました。その時、恐ろしい顔をしたお母さんを見上げて言いました。「お母ちゃん。僕は死ぬのはいやや。死ぬんだったら一人で死んで」と言ったそうです。母親はこの子どもの言葉にはっとしました。自分でこの子の人生を遮断しようとしていた。この子にはこの子の生きていく楽しみや意味があるのだ、この子の命を自分のもののように考えていた。この子の命を奪ってはいけない、と知らされたのでした。
全くの暗闇の中で苦悶するしかない。その時、神にしがみつき、争い、訴えるのです。神と争うとは甚だ不謹慎に聞こえますが、別な言い方をすれば、神への徹底的な信頼の裏返しです。エレミヤも「正しいのは、主よ、あなたです。それでもわたしはあなたと争い、論じたい」(エレミヤ12:1)と言っています。ヤコブも神と争って勝った人でした(創世記32:23以下)。創世記1章2節には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。全くの暗闇も神の支配の内に置かれているのです。「わたしだけどうして」「わたしのことが忘れ去られている」「わたしの時ではなくなった」「全くの暗闇」と思われる場にも神はおられる。否、そこでこそ神に出くわすのです。ヤコブにとって「全くの暗闇」と思われたところが「天の門」「神の家(ベテル)」でした(創世記28:19)。暗闇は、自分の存在に意味がなくなったのではありません。神の霊がそこを覆っているのです。そこで主イエスが私の贖いとなってくださいました。そこで「生きなさい」とささやく声に耳を傾けましょう。その時こそ、神の祝福の時であることを覚えましょう。神を中心に置くことは自分を失うことではありません。その時にこそ「神の民」とされます。