2012年10月14日
「神との論争」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 9章 1-35節
宣教の課題は人づくりにあり、教会の業もそこにつきるでしょう。そのために自らを犠牲にしていく教会こそ、この世から必要とされ主の祝福を得ます。自己保存ばかりに固執していると、自分を失ってしまいます。神さまが人を造られた業は過去に一回的に起こったことではなく、今日も神の働きとして続けられていることだと思います。人づくりは一様ではなく、曲がりながらです。戸惑ったり行き詰まったりしながら、神の存在に気づかされ人となっていくものです。若者が神の似姿としての本質を身につけてしっかりと成長してほしいものです。若い人は、真理を求めることに怠惰であってはなりません。また自分を犠牲にすることを惜しんではなりません。目先の姿形よりも生き方、神の御心を尋ね、それに対して渇望する歩みを期待します。
人は何者であるか、との問いに対して、聖書は「塵のように空しいもの」(創世記2:7)であるというのと、「神の似姿を宿した尊い存在である」(同1:27) という対立する二つの命題を示しています。私たちは神の前で、取るに足りない存在であると言うことを知りながら、同時にかけがえのない聖なる者(神の神殿)として造られている。そのどちらを欠いても人とは言えないのです。
ヨブは、自分の身にふりかかった不幸について苦悶します。彼は友人たちとの論争において、神の全能性と人の空しさについて同意しながら、後半については妥協しません。それは人間の尊厳に関わることであり、自分の存在の根幹をなす譲れないことでした。友人たちは伝統的な宗教観の中に立ち、それで全てを説明しようとします。
「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら,・・恐れることなくわたしは宣言するだろう。わたしは正当に扱われていない、と」(33、35)「正当に扱われていない」というのは、神の創造の意図に照らしてと言う意味があります。すなわち土の塵である者が、聖霊を受け、聖なる神の似姿を宿した者とされたにもかかわらず、そうなっていないということです。ヨブは、こんな不幸な目にあって間尺に合わない、と言っているのではありません。その不幸については神のなさる業であるから誰も文句のつけようがない。しかしそれが罪の結果であると言うことについて正当に扱われていないというのです。不幸そのものではなく、その扱いです。ヨブはそのことについてどうしても譲ることはできないのです。自分を原告に神を被告に置いても訴えるのです。裁判の席に持ち出して訴えるというのです。自分がつまらない存在であると言うことだけでは、なんの意味もない。もう一つ。そのものが神によってかけがえのないものとされているという事柄について知ることが人になることです。
これは神に対する反逆ではなく、神にどこまでもしがみついて「祝さずば、放さず」というヤコブの信仰に通じる事柄です。(創世記32:27)真理とか平和というと、なんの争いもないことのように考えがちですがそうではない。もだえの中から生み出されてくるものです。
教会においても、争いや矛盾はあります。それは辛いことですが、悪いことではありません。その時、自分がどちらを向いているかが問われるのです。神の御心を尋ね、愛と真理に立っているなら、一時的な混乱に動揺することはありません。それが誰かを一時悲しませたとしても、平和につながるのです。私たちは神の側に顔を向けているかどうかでしょう。
「自分が耳が聞こえないという障害には耐えられます。しかしそれに伴って起きる二次的、三次的な差別については耐えられません」とは、聴力障害を持つSさんの言葉です。
私たちはここで「調停してくれる者、仲裁する者」であるイエス・キリストに目を注ぎましょう。ヨブは神との論争を始めることにより、神を求め、探し、門を叩くことが許され、キリストの救いへと導かれたのです。そうして神は人を造られるのです。主が和解の務めを取ってくださることによって私たちは生きた人とされました。それは今、暗闇で苦しんでいるこの時に行われているのです。そこに人づくりの業があります。耐え忍びつつ主を見上げて歩みましょう。