今週の説教要旨

HOME  >  説教要旨  >  2012年10月7日

2012年10月7日

「神の義」

榎本栄次 牧師

聖書 ヨブ記 8章 1-22節

 主イエスの言葉に「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)とあります。本日の礼拝は世界聖餐日です。すべての人が共にキリストの聖餐に与ることにより「神の義」をいただくのです。それは過去の罪の償いではなく、未来へ向かう「神の国と神の義」を求める贖いです。神の義は私たちを守ってくださる愛に根ざし、愛に向かっています。それは神からくる義です。その逆では決してありません。善が踏みにじられ、悪が大手を振って歩くような現実の時にも、神の義は支配しています。この世界の始まりを聖書は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)と表現します。その混沌をも支配するのが神の義です。

 ヨブの苦難を巡って、友人たちは何とか彼を説得しようとします。長老のエリファズの言葉でしたが、彼の心を捉えることができませんでした。二番手に、若い友人ビルダドは率直に語ります。

 「いつまで、そんなことを言っているのか。・・・あなたの子らが神に罪を犯したからこそ、彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」(4)。ヨブの不幸の原因はヨブとその子らの罪にある。自分を正しい、神が間違っているなどとんでもないことだと「神の義」を説くのでした。罪を認めて、はやく神様に許しを請いなさい。そうすれば必ず神の祝福がかえってくる。それをしないのは傲慢である。神様は常に正しい。人は罪深い。まだ遅くはない。「全能者に憐れみを乞うなら・・神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる」(6)と。また「沼地でもない所で、パピルスが育とうか。水もない所で芦が茂ろうか」(11)神の恵みを受けないで、人は生きていけない。神様に守られてこそ強く生きられる。神を忘れたら、枯れた土地の芦のようにすぐにだめになってしまう。神を認めない者は水のない芦のようなものだ。どんなに頑張ってみてもすぐに衰えしぼんでしまう。私たちのよりどころ、頼みの綱は神です。それを離れたらくもの巣の糸のようなもので、すぐに切れてしまうでしょう。(14) 神に頼っている時は何も恐れることはない。そこには命の水が溢れている。水さえあれば太陽の暑さも芦は耐えられる。それと同様に、神に頼っているとどんな困難も恐れることはありません。岩の上の芦も水があれば割れ目に根を張り、芽を出すことができます。たとえ人々からバカにされ、お前など知らないと拒まれても、あなたの口にほほえみを与えて下さる。これこそ福音の力です。

 ビルダドの言葉は、慰めに満ち、なんと説得力のある言葉でしょうか。これに何も付け足すことはありません。その言葉がどうして後に神に叱られなければならないのでしょうか。(42:7以下)

 多くの場合、不幸な人に出会ったとき、その人の側に立って考えるのではなく、健康なこちら側から物事を捉えようとします。全てを美しく飾り、納得しようとする。不都合なことは消し去り、なかったことにする。こうして当事者をさらに深い淵に落としても、その人のせいにするのです。それは「わたしの義」であって、「神の義」ではありません。友人たちはそれに気づかず、さらに語調を強めます。自分たちの教義の論理にのせて美しく、共に納得したいというのが本音でしょう。

       

 イスラエルの信仰は、出エジプト以来、父祖物語を通して語られてきた、何世代にもわたる「積年の共通感覚」となったものであり、イスラエルの民の正義であり律法として確立していました。しかし、その建て前が崩れるような出来事が起きてきました。それは自分たちが求めたものではなく、強いられた出来事でした。すなわちエルサレム神殿の崩壊、君主制の強制廃止、そして第二イザヤが「辛い奉仕」と呼んだ補囚へと続く国家の崩壊という出来事でした。国家的、個人的な苦しい出来事の中で、従来の信仰では説明できなかったことを体験させられたのです。そのような状況下で書かれたのがヨブ記でした。従来の因果応報の信仰をうち破る出来事に遭遇したのです。

 混沌がこの世を覆っていますが、神の霊がその面にあるというのが、聖書の神の義です。それは教義ではない。キリストの十字架の贖いによる「神の義」です。ここにおいて人の死は、罪の罰としてではなく、神の義の贖いとして救いにつなげられるのです。

                                                 
               
音声をお聞きいただけます
               

2012/10/7 「神の義」

                        

日本基督教団 世光教会のご案内

世光教会の礼拝に参加をしてみたいとお考えの方、キリスト教会は、キリスト教信者だけが集うところではありません。
厳かな雰囲気と温かみのある空間で、清々しい祈りの時間をお持ちいただけます。
小さなお子様づれでも安心してご参加ください。
また、信仰のこと、心に抱えている悩みごとなど相談したいことがございましたらご遠慮なくおいで下さい。
いつでも、皆さまのお越しを、心から歓迎いたします。
世光教会では、結婚式をはじめ、キリスト教による告別式など冠婚葬祭も心をこめておこなっています。

聖書It would be greatly appreciated by the person who makes peace. 
The reason for the person is that it is called the son of God.-平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。