2012年9月23日
「慰めるのは誰か」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 7章 1-21節
人は何者か、この問いに対して、聖書は「土(アダマ)の塵から人(アダム)を造り」(創世記2:7)と言い、同時に「神は御自分にかたどって人を創造された」(同 1:27)とも言っています。詩篇の記者も[人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました](詩篇8:5-7)とうたっています。「人は所詮ゴミ」であると言うことと、全く対局にある「神の似姿」としての聖なる存在、この二局を結ぶものはなんでしょうか。不幸になる人は罪を犯した報いであり、正しい人は神の祝福を受けるという従来の宗教観には両者の出会いはありません。ヨブ記はそれに対して人の両面である聖書の真理へと迫るものです。
ヨブは絶望の中から叫び続けます。人は何でしょうか。その一生は傭兵や奴隷のように「苦役の夜々が定められた報酬」(1-5)であり、「わたしの一生は機の梭(ひ)よりも速く、望みもないままに過ぎ去る」(6)。機の梭とは機織りの時のへらのような糸の間を滑らす小さな板のことです。人の一生は、その梭が行ったり来たりする瞬時のようであるというのです。それに引き替え、傭兵のように苦役は長く、それに耐え、奴隷のように働かされて、その報酬は休息のない長い苦しみでしかない。消えてしまえば跡形もなくなる。もういい加減にして欲しいということです。
ゴミのような私にかまわないで放っておいて欲しい。私は何者なのですか。土の塵に過ぎないじゃないですか。たとえ私が罪を犯したとしても、宇宙を造られた神様にとってどれほどの害になるというのですか。「わたしは海の怪物なのか、竜なのか。わたしに対して見張りを置かれるとは」(12)。なぜ「朝ごとに訪れて確かめ、絶え間なく調べられる」(18)のですか。
この絶望の中にいるヨブを慰めるのは誰でしょうか。励まして立たせようとする善意のおせっかいな人か、ヨブの弱点を探り出して責め立てる説教家か。それとも一緒に絶望してくれる無力な相談者でしょうか。それぞれに自分の側からの関わりを試みますが、逆効果であることを知りません。そのもだえがヨブの叫びです。誰が真に慰めてくれるのでしょうか。
私たちの側には何の希望もなくなる時、神は決して見放さず、そこにこそ神の似姿としてのヨブの可能性を示しています。そこには神の栄光が隠されています。その苦難の中に聖なる御心があるのです。
ヨハネ9:1-7には、生まれつき目の見えない人を見かけたとき、弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねました。するとイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。そしてこの人の目を見えるようにされたのです。罪の報酬としての不幸という図式ではなく、神の栄光の現れるためにと言う新しい福音の宣言です。この主の癒しによってこそ慰められるのです。そして塵の存在と神の似姿とを結ぶ言葉はイエス・キリストにのみ依るのです。
今ヨブが経験していることは、エリファズの言うように罪の報酬でなく、神の聖なる似姿を宿した者であるが故に起きていることです。それに代わる慰めはありません。「神によって創造されたという表現は、神によって望まれた、必要とされた、計画された、そして形づくられたと言う意味を持つ」(W.シュットロフ)。主イエスは「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と言われました。神の独り子イエスの十字架によってこそ慰められるのです。主は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5:4)と言われました。主イエスによってこの土塊に過ぎない私が、神の似姿としての神の子とされるのです。そこにこそ真の慰めがあります。