2012年9月9日
「愚か者の救い」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 5章 1-27節
信仰の世界を光ばかりと誤解しがちです。神は光と共に闇も造られました。信仰が具体的になるとそれに比例して矛盾や困難に出会い、自分の身を削られるような経験をさせられます。それは困難を呼び起こし、時としてとても愚かしく見え、その困難の故に裏切り者のように見られ、暗闇が支配するようになります。しかし信仰はそこで育まれ、その様にしてキリストの体である教会はつくられていくのです。
ヨブの苦難はサタンと神との相談で起こされた出来事でした。ここには二通りの思いがあります。一つは、信仰は結局利害関係の上に成り立っている。その恵みを取り去ると、神から離れて信仰を無くすに違いないというサタンの思惑です。立派にしていれば幸せがやって来るという因果応報の考えもこの延長線上にあります。
そしてもう一つは、この苦しみの中において、神と出会うと言うことです。ヨブと神との新しい関係を期待する神の願いです。この試みを通してヨブの道徳的、宗教的なあり方に疑義を表明したのがサタンであり、ヨブとの新しい関係を期待するのが神の思いであったのです。
さてエリファズの奨めは、上の二つのどちら側に属するのでしょうか。彼は、神の全能性と人間の罪深さを対比させ、ヨブに悔い改めを迫りました。それは宗教的になんの間違いもない完全な内容です。しかしその霊感は神からのものではなく、サタンから来たものでした。どんなに神学的に「正しい言葉」であったとしても、そこには神の慈しみと愛がないので、結局ヨブにとってはサタンの側の最強の誘惑になるのです。憐れみのない「正しさ」は人を殺すことになります。
使徒パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言っています。(コリント一1:22)キリストの弟子は、愚かな者にされ、弱い者となじられます。ようく見ると神様がなじられているのです。そこで神は私たちの愚かさを神の愚かさとしてくださり、私たちの弱さを神の弱さとして引き受けてくださるのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(同25)のです。
キリストの福音は泣き言を言わないことではない。ひどい虐待にあった女性に「加害者を許しなさい」と言うことは、福音ではないでしょう。それは絶対に許されてはならないのです。そこに共に立つことから回復が始まるのです。キリストは共に愚かな者になられるのです。
主イエスは私たちのために愚かな者になって下さいました。私たちもキリストに従って行こうとするとき、愚か者と言われるかもしれません。人々の歓呼や名声を得ようとしていると、神の愚かさ、弱さをいただけません。自分を救おうとして人を死なせることになります。
二人の弟子たちがエマオの途上にありました。彼らは亡くなられたイエスのことを話していました。自分たちは主に従ってきたけれども結局敗北して帰ろうとしている。エルサレムは恐ろしいところだ。自分たちのいるところではないと思っていました。その彼らに復活の主が同行されたのです。彼らの失意を知って主は言われました。「苦しみを受けて、栄光にはいるはずではないか」と諭しました。愚か者となじられたとき、それをどうするのでしょうか。もうやっていられないと言って、そこを去るのでしょうか。悪魔はそれを奨めます。しかし主を見あげるときに、主がさらし者になって居られた。主が愚か者になって下さっていた。愚か者と言われたにもかかわらずそこにとどまったのではない。その「苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったのか」すなわちその愚か者であることこそ、主に出会えたのです。私より先に愚か者になっておられる主がおられました。それを知った彼らはもう一度エルサレムに帰っていったのでした。するとそこに他の弟子たちも集まっており、復活の主にまみえたのでした。そこから教会が立ち上がったのです。今いるそこから主を見上げていくのが信仰です。(ルカ24:26)