2012年8月26日
「悲しんでいる人たちは幸いである」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 3章 1-26節
私たちの救いは、こちら側の努力や持ち味で完成するものではなく、完全な神の側からの働きかけ、それとのつながりによって成立するものです。
ヨブの信仰を疑うサタンは、「彼の持ち物を取り上げてごらんなさい、きっと神を呪うでしょう」と神にもちかけました。神がそれを許すと一夜にして彼の持ち物は無くなりました。しかしヨブの信仰は堅く、サタンの狙いは外れました。サタンは降参しません。「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(2:4)と持ちかけました。サタンは信仰を根本で疑っているのです。これでもかこれでもかと、サタンはヨブの化けの皮をはがそうとします。しかしそれでもヨブは信仰に立ち続けて神への信仰を告白するのでした。サタンの狙いは完全に破綻してしまいました。これ以後、ヨブ記ではサタンの出番はありません。
どのような時にも神への信仰を崩さないヨブでした。彼ほどの強い人はいないでしょう。しかしそれがヨブ記の本論ではない。ここから始まるのです。すなわち、自分の側のことではなく、その向こう側のことに光を当てようとします。ヨブはついに友人を前にして本音を吐き始めます。それは前の告白とは似ても似つかない、まったく信仰者らしくない独白です。
「わたしの生まれた日は消えうせよ。・・なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と自分の生を呪い、生まれた日を呪い、死を望むようになります。見栄も飾りもすべてはぎとられた所での叫びでしょう。神に悪態をつく、ヨブは悲しみのどん底に落ちるのです。
「クリスチャンは強く、正しく、清くなければないけない。どんな時にも主を賛美し感謝で溢れているべき」「死の陰の谷を歩むとも災いを怖れじ」の信仰がなければいけない。「鷲のごとく翼を張ってのぼる」ような信仰が求められる。しかし私たちはそんなに強い者でしょうか。自分は健康なときはどんなことでも出きるような気持ちになれますが、ひとたび悲しい現実にぶつかると、儚く消え失せてしまうのではないでしょうか。サタンの前では気張ってできたとしても、神の前の最後の所ではそのベールも剥がれてしまいます。
自分の側にあったものが奪い去られる、その時に信仰はどうなるのか、サタンの言うように空しく消えるしかないのでしょうか。それこそがヨブ記のテーマです。ヨブは信仰を自分のまがきの中に囲っていると確信していました。しかしこの極限の中で、そこから出たい(死にたい)と思うようになっているのです。自分の力、信心、持ち物で神を抱える信仰、いわば私が神様の保護者になっているのです。建前は神様を主としているのですが、本音の所では自分が主になっているのです。すなわち、自分の力で神の国に入ろうとする。その保証をである建て前が崩されたときどうなるのでしょうか。そこから信仰は始まるのです。「悲しんでいるとき」慰めの主に出会う場です。イエスの弟子たちは主の十字架を前に皆、逃げ去りました。
ヨブの神への問いは、伝統的な神学からすれば、神への冒涜です。そしてそれこそが彼の救いの入り口なのでした。アメリカの宗教教育者シェリルは、精神的、肉体的に大きな苦悩を負う人々を「生の地盤に下る人」と表現し、彼と共にその生の地盤に下る者だけが彼を救いうると言っています。(「罪の真理とその救い」)「生の地盤」どん底ですが、それは生の地盤であり、人を基本的なところで支える者という意味です。「悲しんでいる人と共に悲しむ」所です。
主イエスは、「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう」(マタイ5:4)と言いました。それは神さまからの慰めがあるからです。私たちは主の故に、悲しむことを恐れることはありません。主がそれを知って共にいて慰めてくださいます。悲しみを恐れて、主に出会う前に自分で慰めを作る必要はありません。それは結局、絶望に至るのです。神の側からの助けこそ真の慰めです。そこに新しい命があります。