2012年7月22日
「悪魔の試み」
榎本栄次 牧師
聖書 ヨブ記 2章 1-13節
悪魔(サタン)の目的は、人を神から引き離すことです。人は神の方に向かうとき、本来の自分としての命を得るのです。聖書はそれを神を敬い、神を畏れることとして教えています。サタンは人をそこから遠ざけ、本来の姿を見失わせようとします。そのためにはいろいろな手段を講じます。耐えられないような苦しみに遭わせたり、甘い誘惑に誘ったり、または実に信仰深い教義を使ったりもします。神はそのサタンの試みを許されるのは何故でしょうか。
サタンの提案により、一夜にして全財産と子どもたちを亡くしたヨブは、サタンの期待に反して神を呪いませんでした。逆に「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)と告白しました。神はそれを喜び、サタンに言われました。「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」(3)と。しかしサタンは諦めず、更に加えてヨブ自身の体を打つことを提案します。「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてご覧なさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」(4)。彼は頭のてっぺんから足の先まで重い皮膚病にかかり、灰の中に座り、素焼きのかけらで体をかきむしっていました。
その様子を見たヨブの妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と提案しています。この妻の言葉はまさにサタンの期待しているところです。ヨブは答えて言いますが、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と妻の言葉をいさめたのでした。このようになってもヨブは罪を犯しませんでした。サタンは完全に敗北し、これ以後出現しません。
ここで妻の言葉を愚かな罪の言葉として非難することは簡単です。しかしそうでしょうか。夫婦は一体です。私はこの妻の言葉こそが、ヨブに罪を犯させず立たせる力となっているのではないかと思うのです。時として肉親はサタンと同じ歩調を取ることがあります。しかしそれ故にまた心許せる肉親なのです。いつも正解ばかり出し、理想的な言葉しか言わない家庭が健康だとは思えません。そこには、命が宿りません。そのことが、またヨブの大きなテーマになります。主イエスも十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれたのでした。(マタイ27:46)これを不信仰の呪いととるか、神への信頼の叫びととるかです。
不幸が身にまとってきたとき、そのようなときにも浅はかにならず、弱音を吐かず信仰の姿勢を崩さないと言うことは実に立派です。そのような尊敬すべき信仰者に触れると、大きな励ましを受けるのは事実です。しかし一方で、主の道に従いつつ、その不幸を嘆き叫び、神に呟くことも真実な姿ではないでしょうか。ヨブの妻は、家庭の崩壊と夫の惨めな姿にとまどい、愚かになっていました。それはまたヨブの隠れた一面でもあったでしょう。その妻に支えられて、彼は、孤独とどん底の苦しみから逃れられたのです。そして神のみ顔を仰ぐのを忘れませんでした。主にある勝利です。ここでヨブ記が終わっていると、美しい信仰の話で完結したことでしょう。その旅は終わりではありません。緒に就いたばかりです。
「不幸もいただこうではないか」と言うことは、神ご自身が言っているように「お前は理由もなく(ヒンナーム)、私を唆して彼を破滅させようとした」(3)のです。「理由もなく」と言うことは、従来の伝統的な応報主義を否定するものです。そこに罪の報いとしての不幸ではない、この不条理の中に神の思いがあることを示すのが狙いです。
ヨブの物語は美しい話では終わりません。むしろその美しい宗教観の中にある恐ろしいサタンの試みを暴こうとするのです。
ヨブのところに3人の友人が見舞いに来ました。ヨブの苦しみと戦いはここから始まります。