2012年6月24日
「キリストが現れる」
榎本栄次 牧師
聖書 マタイによる福音書 16章 13-20節
ティク・ナット・ハンの所見によれば、禅の修行とは日常生活の一つ一つの行為に、「マインドフルネス」(mindfulness)のエネルギーが行き渡るようにすることです。マインドフルネスとは深い「気づき」のことであり、すべての存在や行為に光を当てるエネルギーです。
キリストは「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と宣言されています。(ヨハネ8:12)。キリストはあらゆる光の源であるということになります。毎日意識的にマインドフルネスによって生活するならば、日の光の背後にあるキリストの命に気づくことができます。そのような行動の積み重ねによって私たちは深い喜びと安らぎを経験することができます。マインドフルネスを使うことによって私たちはキリストに出会うことができます。キリストはこの世の森羅万象においてご自身を現しているのです。
イエス様は弟子たちをフィリポ・カイサリア地方に連れて行かれました。「カイサリア」とはギリシア語の「カイサレイア」のことであり、これは「カエサル」という単語から作られたものです。イエス様はなぜフィリポ・カイサリア地方に連れて行かれたのでしょうか。マタイ福音書の平行記事を参考にすると、この疑問に答えることができると思います。テキストの13節の右側にマルコ福音書とルカ福音書の平行記事が記載されています。三つの平行記事には共通したものがありますが、同時に各々、微妙な違いもあります。
マタイ福音書ではイエス様の一行は実際にその町の中に入ったとは書かれていません。マタイにおけるフィリポ・カイサリア地方とはユダヤ人がほとんど住んでいない辺境地帯であります。つまりこの場所は、人里離れた静寂の世界なのです。イエス様と弟子たちだけが存在する世界なのです。信仰が成立するためにはいわゆる「リトリート」という行動が必要です。カトリック教会ではリトリートを「静修」と訳しています。すなわち、世俗の騒音から離れて、静寂の環境の中で神と交わり、自分の心を反省することです。マタイによると、イエス様はそのような環境をあえて作り出すためにフィリポ・カイサリア地方を選ばれたのです。
シモンは単に「キリスト」と答えるだけではなく、「生ける神の子です」と答えています。ここからわかるように、マタイにとってイエスという方は、キリストであると同時に生ける神の子なのです。神の子とは単なる人間ではなく、神の本質を持った存在として理解されています。「生ける神」とは永遠に生きている神という意味です。パンは偶像であって、生きた神ではありません。それに対して、聖書の神は偶像ではなく永遠に生きている神です。私たちはイエス・キリストという人格を通して永遠に生きている神と出会うことができるのです。
パウロが証言しているように、キリストは今も聖霊において私たちに現れています。そして私たちが祈りを通してキリストに心を開くならば、キリストの命は私たちの命と一つになります。私たちの命はもはや私たち自身のものではありません。私たちはキリストの命によって生かされているのです。(ガラテヤ2:20)。そのような出会いを経験することができます。
トマス・アクィナスは、人間が神を認識するためには、神の恵みの啓示が必要であると教えています。すなわち、神ご自身が私たちに現れてくださらなければ、私たちは神の存在に気づくことができないのです。言い換えれば、このような啓示の働きによって、私たちは自分の限界を超えて神の世界に入ることが許されているのです。これはまことにありがたい恵みです。