2012年6月17日
「愛と平和の神」
榎本栄次 牧師
聖書 コリントの信徒への手紙二 13章 11-13節
教会は、イエス・キリストの名によって集められた共同体です。それは罪深い人間の集まりでありながら、そこに愛と平和の神が共にいてくださることにおいて、聖なる家族である教会が存在するのです。
本日の聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙の締めくくりです。「終わりに、兄弟たち」と呼びかけるパウロは、「コリントの教会に連なる友たちよ、わたしの望むことは、愛と平和の神が共にいてくださる教会です。そのためにいつも喜び、完全な者となり、励まし合い、思いを一つにし、平和に過ごすことで、愛と平和の神が共にいます教会を形成してほしい」 ということでしょう。「終わりに」ということは、これだけは言っておきたい、これだけは記憶しておいて欲しいという気持ちが込められています。
パウロにとって、教会が一致し、よき交わりを生み出す事こそが願いであり、この書簡を書いている狙いです。その根拠は何でしょうか。それは「愛と平和の神が共にいます」ということに他なりません。そして「喜びなさい」と勧めます。喜ぶことは、信仰による平和を自分自身に確実なものにした人のことです。今まで不安であったことが吹き飛んで、悩まなくてすむようになる、その福音の故に喜ぶのです。そして「完全な者になりなさい」と続きます。完全な者などにどうしてなれるでしょうか。失格者とされ黙るしかありまっせん。しかしここでパウロの言うことは、信仰的な聖化を果たし、無欠点な清潔な人になることではありません。簡に言えば「それでいいのだよ」と言われた人のことです。
徴税人ザアカイがイエスに出会ったとき、木の上から見ていました。人々がじゃまをして見えなかったからです。彼に対してイエス様は「ザアカイ急いで降りてきなさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい」と言いました。ザアカイは喜んでイエスを家に迎え入れました。そして、「主よ、わたしの財産の半分を貧しい人々に施します。まただれかからだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と言いました。(ルカ19:4-10)このザアカイこそが完全な者です。ザアカイが無欠陥になったのではなく、主イエスが彼の所に入ってくださったことによって完全になったのです。喜びの根拠はここにあるのです。
次ぎに、個人の信仰の姿勢を正した上で、「励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と勧めます。励まし合うことは、自分にも同じような弱さのあることを認めることです。そこに慰め合うという関係が生じます。困ったものだ、何とかしなければ、と悩んでいる相手のことを「それでいいんだよ」と心の中で言ってみてください。それはあきらめや、放任ではなく、信頼です。いつのまにかあなたの心に平和の神が支配します。そして「これお願い」という要求をぶつけ合うことも可能になります。
「思いを一つにすること」は、相手を自分に一致させることでしょうか、あるいは自分を殺して相手に全部譲ることでしょうか。または多数決で事を図ることでしょうか。いずれもどこかに欠陥があり、さらに大きな矛盾を生み出しそうです。一時的に勝ったと思っても、すぐ次ぎに前より悪くなっていたりします。
パウロの言う一致は、「愛と平和の神様が共におられる」という信仰です。そこにこそ、教会の建つべ依って立つ根拠があります。裁きを主にお任せすることです。そこには孤独がありますが、神との出会いが起き、相手との出会いも新しくなるでしょう。
私たちにとって必要なことは、「愛と平和の神があなた方と共にいてくださいます」という信仰ではないでしょうか。私たちは信仰の共働者です。利害を共にする同業者ではありません。 キリストに結ばれて共に働く共働者です。